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桂小五郎が潜伏した出石・城崎の地へ。逃げの小五郎が維新三傑となる転機を知る歴史旅

記事公開日:2016/09/12

長州藩の桂小五郎(木戸孝允)は禁門の変で朝敵として狙われる事になり、但馬へと姿を隠します。そして8ヶ月の潜伏期間を経た後に日本の近代化に貢献し、大久保利通、西郷隆盛と並ぶ「維新三傑」と称されるようになっていきます。今回は当時の潜伏先であった兵庫県但馬の出石・城崎の地を訪ね、その時何が起きたのか?潜伏期間中の謎を知る歴史旅に出かけたいと思います。

写真で見る桂小五郎(木戸孝允)


天保4年(1833年)、萩で生まれた桂小五郎は吉田松陰のもとで兵学を学び、江戸の斎藤弥九郎道場で修業を行って剣豪としても名を馳せ、諸藩との交流の中で尊皇攘夷派の先鋭として頭角を現していきます。

 

そして元治元年(1864年)7月19日、長州藩の強行派は京都で禁門の変(蛤御門の変)を起こすものの、薩摩・会津の圧倒的な勢力に敗北してしまいます。その後の長州藩は朝敵となってしまい、幕府による厳しい残党狩りに晒されていきました。

 

城下町出石の風景

※城下町出石の風景

 

桂小五郎は但馬出石(いずし)へと走る

 

芸妓「幾松」の差入れによって助けられる小五郎ですが、自らの身に危険が迫ってくると、意を決して京都を脱出します。山陰道(丹波道)を福知山へと抜け、但馬の久畑(くばた)の関所では、警戒中の役人に尋問を受けています。当時同行していた出石の顔役「広戸甚助」は、小五郎を「私の船の船頭だ」と言いくるめる事で無事に関所を通過。4日間で約120kmの道のりを踏破し、7月27日に出石町へと入っています。

 

田結庄町の「角屋喜作」宅跡

※桂小五郎が出石で最初に隠れたという、田結庄町の「角屋喜作」宅跡

 

出石に到着した小五郎は広戸甚助、直蔵兄弟の支援を受けて潜伏します。そして幕府の捜索の手が迫るごとに商家やお寺、城崎の旅籠など、潜伏先を7ヶ所も移動したと言います。しかしこの時はひたすらに逃げ惑うというわけでもなく、お寺で近所の人と囲碁を打ったり、子供たちと花札で遊んだとも言われます。地元に溶け込んでいく事で不審な気配を薄めるという、策士らしい小五郎の大胆な行動が感じられます。

 

それから5ヶ月ほど経った頃には長期戦となるのを覚悟したのか、小五郎は自らを「広江孝助」と名乗り、荒物商を営む町人として住込み、広戸兄弟の13歳の妹「スミ」が身の回りの世話をしていたと言います。

 

出石・宵田町の潜伏地「荒物商」の跡地

※出石・宵田町の潜伏地「荒物商」の跡地

 

幾松の写真

 

小五郎を献身的に支えた幾松との再会

 

一方の幾松は、小五郎の居場所を知らぬままに下関へと赴きます。この時の幾松は後の甚助の連絡によって、小五郎が出石に潜伏しているのを知る事になります。そして同じ頃、高杉晋作は長州の俗論派を倒して政治の実権を奪還します。この時に小五郎の居所を知った伊藤俊輔(博文)らは、小五郎の帰国を懇願する手紙を書き、幾松へと託します。そして慶應元年(1865年)3月、出石へと入った幾松は7ヶ月振りに小五郎と再会したと言われます。

 

「湯島村」と呼ばれていた城崎温泉

※昔、「湯島村」と呼ばれていた城崎温泉

 

小五郎と幾松の2人は城崎温泉の「松本屋」で久しぶりのひと時を過ごし、4月8日に下関へと向かいます。これによって小五郎は8ヶ月に及ぶ出石での潜伏生活を終えています。この時は船で四国、金比羅山に参詣しながら長州に向ったと言われ、坂本龍馬とお龍の新婚旅行に先駆けたと言っても過言ではないような旅となっています(龍馬とお龍の九州行はこの11ヵ月後)。

 

桂小五郎が移動したというルート

※当時、桂小五郎が移動したというルートです。山陰道(丹波道)を通って出石・城崎付近に潜伏。長州へ戻る際は大坂を経由して船で金比羅大権現から下関へと向かっています(歴史の旅37号から抜粋)

 

幕末の動きを一気に加速させ、明治新政府の要人として活躍

 

慶應2年(1866年)、桂小五郎は坂本竜馬と共に、西郷隆盛と交渉を行なって歴史的な「薩長同盟」を締結、これ以降一気に倒幕の動きが加速していきます。明治時代に入って「木戸孝允」と改名した小五郎は、新政府の参与として五箇条のご誓文を起草、その後も版籍奉還、岩倉使節団の欧米歴訪など、政治的手腕を発揮して日本の近代化に尽し、大久保利通、西郷隆盛と並んで「維新三傑」と呼ばれました。しかしその後は病床についてしまい、幾松(木戸松子)の看病の甲斐も無く、明治10年に45歳の若さで没してしまいます。

 

桂小五郎ゆかりの旅館、城崎温泉の「つたや」へ

 

旅館「つたや」の外観

 

桂小五郎が潜伏した「桂の間」(復元)

※桂小五郎が潜伏した「桂の間」(復元)。この部屋には作家の司馬遼太郎氏も宿泊しています

 

ここは城崎温泉です。小五郎は前述の通り、湯島村(城崎温泉)の湯治宿「松本屋」にも潜伏しました。この時に宿の女将の娘「たき」は、懇意となった小五郎の身のまわりの世話をしていたと言われます。この宿は現在、「つたや」という名前で大正14年の北但馬大地震後に再建されています。当時と同じ間取りの「桂の間」には現在も宿泊する事ができます。そして館内には桂小五郎の遺墨など、多くのゆかりの品々がロビーや展示室に陳列されています。

 

ゆかりの宿、「つたや」の女将さんに館内を案内して頂きました

 

「桂の間」で司馬遼太郎氏の色紙が張られた衝立

※「桂の間」にて。司馬遼太郎氏の色紙が張られた衝立

 

ここはNHKの「歴史秘話ヒストリア」でも紹介され、女将さんも出演して小五郎とのゆかりを説明しています。当時の「松本屋」の目の前には「代官所の陣屋」があり、「小五郎は敢えてこの場所に泊まったそうです」と、当時の小五郎の逸話を教えてくれました。

 

木戸松菊(孝允)遺墨の書

※館内に陳列される木戸松菊(孝允)遺墨の書

 

館内の陳列品たち

 

旅館「つたや」に滞在した作家の司馬遼太郎氏

 

司馬遼太郎氏と「つたや」の先代のご主人

※司馬遼太郎氏(右)と「つたや」の先代のご主人(左)

 

昭和38年、作家の司馬遼太郎氏は「つたや」に滞在し、「竜馬がゆく」の「希望」の章を書きます。そして滞在期間中の御礼として、随筆「わが城崎」の原稿(未発表)を残しています。ここで興味深いのはその最後のくだりです。司馬遼太郎氏がなぜ「つたや」を訪れたかが分かります。

 

「桂は後にこそ木戸公爵になったが、当時は朝敵である。幕府のおたずね者の長州人であった。しかも彼をかばった何人かの但馬人、つまり出石の小商人や城崎の湯宿の母娘などは、彼がどこの馬の骨とも知らない。そういうものを命がけでかくまうというこの土地の人情の不思議さを、私は知りたかった」(「つたや」所蔵の原稿より引用)

 

司馬遼太郎氏「わが城崎(未発表)」の原稿

※司馬遼太郎氏「わが城崎(未発表)」の原稿

 

小五郎はなぜ但馬の出石・城崎を潜伏先に選んだのか?

 

当時の小五郎は目算があってこの但馬を潜伏先に選んだと言われます。過去、出石藩はお家騒動で3万石の減封を受け(仙石騒動)、前年には尊皇攘夷派の挙兵(生野の変)などがあり、朝敵に心を寄せる土地柄であったこと。そして小五郎自身も義挙に触れ、「但馬は尊王派が多い」(坂本竜馬関係文書第二)とその気風を読んでいます。司馬遼太郎氏は小説「逃げの小五郎」の中で、出石藩は外様であり、「探索にはあまり熱意を示さなかった」と書き、先の疑問に1つの答えを示しています。

 

旅館「つたや」の前に建つ「木戸松菊(孝允)」の碑

※旅館「つたや」の前に建つ「木戸松菊(孝允)」の碑

 

桂小五郎の思いとは?

 

志を達するためには命を無駄にしてはならぬ。それは吉田松陰の刑死や、禁門の変における久坂玄瑞の死を受け、さらにその思いを強くしたのかもしれません。死して名を残す武士の時代は終り、新たな時代が来ると確信した但馬の潜伏だったのかもしれません。

 

明治10年の西南戦争のさなか、危篤の床にあった桂小五郎は、「西郷もまた大抵にせんか、予今自ら赴きて之を説諭すべし」(松菊木戸公伝、下)と言い残しています。「内輪もめしている場合ではない、もっとやるべきことがあろうに」という言葉が死の直前の重い言葉でした。この後、西郷隆盛は城山で没し、翌年には大久保利通が暗殺されてしまい、「三傑」の時代はここに終焉しました。

 

今回訪れた兵庫県・出石と城崎の旅行スポット

 

名称:出石町
住所:兵庫県豊岡市出石町
アクセス:京都から特急で約2時間半
JR山陰本線豊岡駅下車、出石行き全但バスで約30分

名称:城崎温泉
住所:兵庫県豊岡市城崎町
アクセス:JR山陰本線城崎温泉駅下車

 

播磨翁播磨翁

兵庫県の播磨国に在住。ワクワク出来る歴史旅をご紹介できれば幸いです。個人的には謎がありそうなディープな歴史が好きです。

 

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