兵庫・日岡山公園、ヤマトタケル生誕の謎と伝承を知る加古川旅
兵庫県・加古川流域に近い日岡山公園には「日岡陵」という、ヤマトタケルの母親と伝えられている人物の墓所があります。今回はこの日岡陵周辺のスポットを巡り、ヤマトタケルの生誕と伝承を知る旅をご紹介していきます。
公園内には天平時代(729年~749年)、聖武天皇の頃の創祀と伝わる「日岡神社」があります。ここは天伊佐佐比古命を祭神とし、「安産の神様」としても有名な神社です。
この神社には少し変った絵馬が奉納されます。その絵馬には生まれたばかりの双子が石のタライで産湯に浸かっていて、そこには景行天皇の御子として、「大碓命」と「小碓命、後の日本武尊(やまとたけるのみこと)」の絵が描かれています。
ヤマトタケルの母親は播磨出身とされている
ヤマトタケルについては、「古事記」では「倭建命」、そして日本書紀では「日本武尊」と表記されます。そして母親についてはともに播磨国出身の「イナビノオオイラツメ」とされていますが、ヤマトタケル自身が生まれた場所までは記されておらず、いまだに謎とされています。しかし、ほぼ同時期に朝廷の詔で編纂された「播磨国風土記」には、景行天皇と后に係わる説話が書かれていました。
※注:ヤマトタケルの母親「イナビノオオイラツメ」に関しては古事記では「伊那毘大郎女」、日本書紀では「播磨稲日大郎姫命」、播磨国風土記では「印南別嬢」と表記されています。
※写真は日岡山からの展望。すぐ近くには加古川が流れています。伝承では手前側が播磨国、そして川の向こうが吉備国であったと言われています。
景行天皇による求婚とヤマトタケルの誕生
播磨国は古くから大和朝廷とのつながりが強い地域で、西の境として重要な位置を占めていました。そして「播磨国風土記」によると、吉備国との境を定めた頃、吉備津彦命の娘(イナビノオオイラツメ)が「世に秀でて麗しい女性である」と評判になります。その噂を聞いた景行天皇は、この娘を妻にしようとはるばる大和から加古の郡へとやって来ます。それから妻問いして皇后に迎えたと言われ、城宮田村(現在の加古川市木村)で婚姻の儀式を挙げたと記されています。
日岡神社の由緒によれば、景行天皇の皇后であるイナビノオオイラツメの出産は難産であったため、主祭神である天伊佐佐比古命(吉備津彦命)が七日七夜に渡って安産祈願を行い、無事に双子の皇子が生まれた。そして双子の皇子の一人がヤマトタケルであると伝えています。
日岡古墳群にはヤマトタケルの母親と伝えられる墓所がある
兵庫県には16,000基もの古墳があり、この日岡古墳群にも前方後円墳が5基、そして円墳が3基あり、周辺には西条古墳群も含め、県内においても規模が大きな古墳群となっています。
日岡神社のすぐ横から石畳を上がっていくと、宮内庁の表示板があります。「景行天皇皇后播磨稲日大郎姫命」(播磨のイナビノオオイラツメ)と書かれ、ここが景行天皇皇后、すなわちヤマトタケルの母親の墓所「日岡陵」の入り口となっています。
石段を登りきると長さ85m、前方部の幅33m、後円部の直径が50mの前方後円墳、日岡陵へと到着します。ここは明治16年に宮内庁によって播磨稲日大郎姫命の陵に治定され、宮内庁の管理区域となっています。
古事記、日本書紀に見られるヤマトタケルの活躍
ヤマトタケルは16歳の頃、景行天皇の命によって熊襲征伐(西征)へと向います。女装して敵を油断させてから征伐し、続いて敵の剣を木刀に取替える謀(はかりごと)で出雲も征伐します。さらに東国の平定(東征)に向かい、相模では野原に火を付けられて窮地に陥るものの、「草薙の剣」で難を逃れます。
その後も各地で戦いを続けますが、能煩野(三重県亀山市〉の地で遂に力尽きて亡くなってしまい、白鳥となって天に翔け昇り、飛んで行ったと伝わっています。文字通り、東奔西走して各地を平定したヤマトタケルは、国の統一に貢献した伝説の英雄として知られています。
産湯に使ったと伝わる石のタライ
日岡神社の由緒にある「石のタライ」は、1kmほど参道を南に下った先の住宅街の軒先にありました。この付近には案内標識なども無く、とても気付きにくい場所となっています。解説には竜山石の凝灰岩製で、昔からこの近辺にあり、「二人の王子はこの石のタライを産湯に使った」と書かれています。
播磨国風土記に伝わるイナビノオオイラツメの「褶墓(ひれはか)」
ヤマトタケルの母は播磨国の「氷の川(加古川)」近辺に住まい、この地で一生を終えます。そして葬儀のために皆で遺体を担いで川を渡るその時に、突風が吹いて遺体が流されてしまいます。それから遺体を探しても見つからず、化粧箱の匣(くしげ)と飾り布の褶(ひれ)だけが見つかり、この2つのみを葬ったため、日岡山の墓が「褶墓(ひれはか)」と呼ばれるようになったと伝えています。
清水が湧いた「松原の御井」
また、播磨国風土記によると、后を亡くした景行天皇は、悲しみのあまり松原(加古川の河口付近)に宮殿を移しました。そしてその後に清水が湧き出たため、ここを「松原の御井」と呼ぶようになったと伝わります。この井戸水は、昭和初期までは崎宮神社や尾上神社の神事などに使用されていたとのことで、加古川の改修に合わせて、現在の場所(加古川市尾上町)へと移築されたとあります。
ヤマトタケルの最期と望郷の想い
古事記も日本書紀も、そして播磨風土記も、ヤマトタケルの生誕地そのものについては語っていません。しかし、この地に伝わる数々の説話や伝承を重ねてみると、この地で誕生し、成長していくヤマトタケルの実像が感じられてきます。16歳から全国各地で戦い続け、二度と故郷に帰る事も無く力尽きたヤマトタケルは、望郷の歌を詠んだと言われます。白鳥になって飛び立ったヤマトタケルは、この母との思い出の地を天空から眺めることができたのでしょうか。謎の多い伝説の勇者、ヤマトタケルの持つ魅力や浪漫を感じた歴史旅となりました。
今回訪れた加古川旅のスポット
名称:日岡山公園、日岡神社、日岡陵
住所:兵庫県加古川市加古川町大野1682
アクセス:最寄り駅はJR加古川線の「日岡駅」
名称:石のタライ
住所:加古川市加古川町美乃里
アクセス:日岡神社から南へ約1km
名称:松原の御井
住所:加古川市尾上町養田
播磨翁
兵庫県の播磨国に在住。ワクワク出来る歴史旅をご紹介できれば幸いです。個人的には謎がありそうなディープな歴史が好きです。
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