弁慶と義経が出会うきっかけになった書寫山圓教寺。色づく紅葉と弁慶の伝承を巡る旅
天台宗の別格本山となっている書寫山圓教寺。今回はこの地に残る武蔵坊弁慶にまつわる伝承と、源義経との出会いのきっかけになった出来事を知る歴史旅をご紹介していきます。
性空上人によって開かれた古刹には、武蔵坊弁慶の伝承が残る
兵庫県姫路市の北西部に位置する「書寫山圓教寺」。ここは平安時代の康保3年(966年)、性空上人によって開かれたという古刹です。圓教寺の境内には重要文化財などが非常に多く、今も手つかずの自然が美しく残されているスポットでもあります。
※写真は紅葉に染まり始めた「摩尼殿」の周辺
書寫山圓教寺は千年の法灯を守り続けている祈りの地ですが、ここは全国から多くの僧侶が集まり、教えを学ぶという修行の地でもあります。そしてこの地は、あの「武蔵坊弁慶」も修行を行なっていたと伝えられます。今回は紅葉が美しく色づき始めたこの地で、武蔵坊弁慶の伝承を訪ねてみました。
※写真は「松平家墓所」
武蔵坊弁慶が過ごしたという書写山。義経記が伝える記録を紐解く
比叡山にいたという弁慶は、乱暴が過ぎて追い出されてしまい、その後、弁慶は書写山へ入ったと言います。そしてこの地では弁慶自身の人生の転機となる事件が起こります。その事件の顛末は、源義経の生涯を記した「義経記(ぎけいき)」の中で伝えられています。
※左側が「護法堂拝殿」。別名「弁慶の学問所」と呼ばれ、弁慶はここで修行したと伝わります
書写山炎上のくだり「義経記」「弁慶物語」より
比叡山を降りた弁慶は、阿波国の霊場を巡った後に、性空上人を慕って播磨国の書写山へと登ります。ここには諸国から多くの修行僧が集まり、弁慶もそのうちの一人として修行に励みます。そしてその時の弁慶の姿を見た衆徒は、「見た目と違って穏やかな人である」と弁慶を褒めたたえたと言います。
※写真左は弁慶が顔を映したという「鏡井戸」。右はお手玉にして遊んだという「弁慶のお手玉石」
ある日、弁慶が昼寝をしていると、悪僧である信濃坊戒円(かいえん)が、弁慶の顔に「弁慶は平足駄とぞなりにけり、面を踏めども起きも上らず」と落書きをします。そして周囲の者たちが大笑いをする中、弁慶は何の事だかさっぱりわからず、近くの井戸に顔を映した時に初めて顔の落書きの事を知ります。
恥をかかされた弁慶は烈火のごとく怒り出します。それに対して戒円は檪(くぬぎ)の燃えさしで弁慶に打ちかかります。そして怪力であった弁慶は、そのまま戒円を抱え上げ、講堂の屋根へと放り投げてしまいます。その時、戒円の檪(くぬぎ)の燃えさしが講堂の軒に挟まり、谷から吹き上げられた風に煽られてしまい、講堂他の54棟が炎上し、その全てが焼け落ちてしまいます。
事件がきっかけで、牛若丸と出会う事になった武蔵坊弁慶
事件を起こした弁慶は、「寺を焼いたのはこの弁慶でござる。再建するのも弁慶が仕る。ただし、再建のための財を持っておりませぬ。それ故に太刀を千本奪い取って、釘の代金として差し上げます」と仏に誓ったと言います。
この事件の後に、弁慶は侍から太刀を奪い歩き、999本を手に入れる事になります。そして最後の1本となったその時に、京の五条大橋で牛若丸(源義経)と運命の出会いを果たすことになるのです。
※写真は「法華堂」
一般的には、弁慶は乱暴者で喧嘩の絶えなかった荒法師と言われます。しかし「義経記」によれば、比叡山の修行においても「人に勝り、学問は世を越えて器用なり」とあります。また、書写山においても真面目に修行を終え、学頭に対して暇(いとま)の挨拶へ行くほどに律義な弁慶の姿が書かれています。どうやら弁慶というのは、普段は真面目で礼儀正しいものの、一度切れてしまうと止まらなくなる性格の人物だったのかもしれません。
圓教寺の奥の院「開山堂」には、左甚五郎作の力士像が残る
書写山圓教寺の奥の院には、性空上人を祀っている「開山堂」があります。そしてその軒下には開山堂の屋根の重みを必死の形相で支える「力士像」があり、この像は名工・左甚五郎の作と伝えられています。
※写真左上が南東、右上が北東、左下が南西、右下が北西(北西には像が無い)
しかしこの開山堂の力士像、なぜか北西の隅だけには像がありません。この場所の説明板には、「力士が余りの重さに耐えかねて逃げ出したという伝説がある」となっており、文化庁の資料にも「北西隅を除き、隅木下に力士像を据えている」と簡単に書かれているだけです。重要文化財にも指定されている開山堂ですが、この力士像の不思議は未だ謎に包まれたままとなっています。
ここから先はあくまでも推測ですが、栃木県にある日光東照宮の逆柱のように、「建物は完成と同時に崩壊が始まる」という考え方のように、崩壊を避ける魔よけとして、一箇所だけを未完で残しているのかもしれませんね。
※写真は「本多家廟所」
書写山にはその他にも、武蔵坊弁慶にまつわる伝承が残る
書写山に残されている史料によると、安政5年(1858年)の「霊仏霊宝目録」の中に、「天神名号 武蔵坊弁慶筆」などの3点の記載があり、太刀や長刀を奉納したとあるそうです。
また、「三之堂」の「食堂(じきどう)」には、「弁慶の机」と伝わるものも残されています。弁慶はこの大きな机を小脇に抱えて持ち歩いたと言い、この机の様子をよく見てみると、角が取れて丸くなっていて、多くの傷も見受けられます。
この弁慶の机を巡っては、いつの頃か、近所の子供たちがこの机の端を小刀で削り、「頭が良くなる」といってお守りにしていたとも言います。現在はこのようにケースの中に収められていますが、当時の子供たちも気が優しくて力持ち、そして賢くて豪快な弁慶という人間にあやかろうとしていたのかもしれませんね。ヒーローとして伝えられる武蔵坊弁慶は、これからもずっと語り継がれていく人物なのだろうと思います。
※写真は「瑞光院」
今回訪れた歴史スポット
名称:書寫山圓教寺(しょしゃざんえんぎょうじ)
住所:兵庫県姫路市書写2968
アクセス:JR「姫路駅」からバスで約30分。書写山ロープウエイで約4分
駐車場:書写山ロープウエイの乗り場近くに駐車場あり
播磨翁
兵庫県の播磨国に在住。ワクワク出来る歴史旅をご紹介できれば幸いです。個人的には謎がありそうなディープな歴史が好きです。
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