源頼朝が開いた鎌倉幕府跡地は今?大蔵幕府跡と源頼朝の墓を巡る歴史旅
日本で初めての武家政権が生まれた地「鎌倉」。源頼朝が開いた鎌倉幕府の中心地は、一体どの辺りにあったのでしょうか?今回は鎌倉幕府跡の今にスポットを当て、源頼朝がかつて住んだ地と墓所をご紹介していきます。
源頼朝が開いた鎌倉幕府。かつての日本の政治の中心地跡へ
古都鎌倉のランドマークである鶴岡八幡宮から東へ5分ほど。ここから先へと進んでいくと、源頼朝が鎌倉に入って幕府を開いた場所、大蔵幕府(大蔵御所)跡へと辿り着きます。
付近には「源頼朝の墓」の場所を示す案内板も。かつて源頼朝が鎌倉幕府を開いたと伝わる場所には、頼朝公の墓所もあります。
閑静な住宅街の道をすり抜けて行く。この辺りの地名は鎌倉市「雪ノ下」と呼ばれていますが、この雪ノ下という地名の由来は、かつて源頼朝が夏の暑さを凌ぐため、現在の鶴岡八幡宮の裏辺りに雪屋を作らせて雪を貯蔵したという話にちなむものと言われます。
源頼朝が住み、政治の中心だった場所「大蔵幕府(大蔵御所)跡」
道を進んでいくと1つの石碑が。この石碑の建っている場所周辺が、かつて源頼朝が住み、日本の政治の中心地であった大蔵幕府(大蔵御所)跡だと伝えられています。鎌倉時代、源頼朝の死後は幕府が置かれた場所も鎌倉内で何度か移転していますが、この大蔵幕府(大蔵御所)跡は、鎌倉幕府最初の政治の中心地となっていました。
大蔵幕府(大蔵御所)跡の一帯を望む。現在は清泉小学校という学校の敷地になっていて、住宅街の中に校舎と運動場が広がっています。今から820年ほど前、目の前のこの場所に多くの武士が集い、日本で初めての武家政権が打ち立てられていく。新たな国家作りという壮大なプロジェクトを前に、緊張感と熱気が交錯するような、すごい場所だったのかもしれません。
清泉小学校の敷地の東側には「東御門」と書かれた石碑も。大蔵幕府(大蔵御所)には4つの門があったと言われ、この辺りが東側の門跡だと考えられています。また雪ノ下地区の北側、源頼朝の墓所がある付近は「西御門(にしみかど)」という地名になっていて、現在も御所跡にちなんだと思われる地名が残され、ここに根付いています。
鎌倉幕府を開いた人物、源頼朝公の墓所へ向かう
大蔵幕府(大蔵御所)跡を示す石碑の北へ。ここには小さな公園がありますが、この公園の名前は「よりとも児童公園」。かつて源頼朝が政治を司ったエリアの一角は、小さな子供たちの遊び場になっています。
そして子供たちが遊ぶよりとも児童公園のすぐ隣に、「法華堂跡」という石碑が立てられています。この辺りは源頼朝が日常的に仏に祈った場所で、頼朝の持仏堂があった場所だと言われます。現在、建物などは残っておらず、かつての法華堂跡地は現在「白旗神社」という神社になっています。
勝ち運の神様「白旗神社」、ご祭神は源頼朝公です。鶴岡八幡宮の境内にも同じく白旗神社がありますが、こちらの白旗神社の方は、昭和45年に源頼朝公を慕う方々の手によって社殿が建てられたのだそうです。
いよいよ源頼朝公の墓所へ
白旗神社のすぐ先に現れる急な石段と鳥居。小高い丘となっているこの先に、鎌倉幕府の創設者であり、日本の歴史を大きく動かした、源頼朝公の墓所があります。
源頼朝の墓を示す案内板も。鎌倉幕府の公式記録とも言える吾妻鏡には、源頼朝の死後、「故右大将家法華堂東の山上を以て墳墓となす」という記録があるようで、まさにこの石段の先辺りが、頼朝公が葬られた地だと考えられています。
そしてこちらが石段の先にあった「源頼朝公の墓所」。国指定の史跡となっています。日本の政治を動かした大人物の墓所としては小さく感じるのですが、現在のこのお墓は江戸時代に九州の島津家、薩摩藩8代目の当主であった島津重豪によって建てられたものだそうです。しかし鎌倉幕府が滅びて以降、長らく放置されていたこの場所を、島津家が整備し、供養したのはなぜだったのでしょうか?
実は島津家の先祖は鎌倉幕府の御家人であり、島津忠久という人物であったと言います。そしてこの島津忠久は頼朝のご落胤(隠し子)であるという説があり、その説に基づいて島津家が墓を建てたのではないかと言われます。この話を裏付ける証拠はないようですが、この墓のある土地は2002年(平成14年)までは島津家が所有し、長年にわたって管理を行なってきたようです。
※江戸時代に墓所を整備した後、明治時代になって島津家と毛利家がこの辺りの土地を買い取り、2002年に島津家当主、毛利家当主から鎌倉市へ土地が寄付されたそうです。
源頼朝公の墓所の右側には「希義公の土と石」と書かれた看板が。源希義は頼朝の弟でしたが、源義朝が平治の乱で敗北した後に兄弟は離れ離れになり、頼朝は伊豆へ、そして希義は土佐の国へと流されてしまいます。その後頼朝は平氏打倒の兵を挙げますが、その時に希義も反逆の疑いをかけられて討たれてしまったと言います。
それから800年以上の時を経た1995年、お互いに生きて再会する事が叶わなかった2人の事を偲んだ人々が、源頼朝の墓、源希義の墓の土と石をお互いに交換し、死後の兄弟の再会を支援したそうです。
最後に源頼朝公の墓所からの眺めを。今は木々が茂って景色が見づらくなっていますが、ここからは大蔵幕府(大蔵御所)跡を望む事ができます。源頼朝公が開いた鎌倉の街には800年以上を経た現在も多くの人々が住み、そして多くの人々がこの街を愛し続けています。
今回訪れた歴史スポット
名称:大蔵幕府跡
住所:神奈川県鎌倉市雪ノ下3丁目11-45
アクセス:JR横須賀線「鎌倉駅」東口から徒歩約18分
名称:源頼朝の墓
住所:神奈川県鎌倉市 西御門2丁目5番
アクセス:JR横須賀線「鎌倉駅」東口から徒歩約20分
ニホンタビ編集部
歴史スポット巡りや観光、老舗の歴史飯を味わう旅って案外楽しい!と言って頂けるような情報を発信したいと思います。
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