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江戸城を作った男・太田道灌、関東発展の礎を築いた武将の知られざる墓を巡る旅

記事公開日:2015/11/18

徳川家康が江戸城を整備するおよそ130年も前に、現在に続く江戸城を本格築城した男「太田道灌」。今回は一般的に言われる太田道灌の墓とは異なる、知られざるもう1つの墓を巡る歴史旅をご紹介していきます。

江戸城を作った男・太田道灌、関東発展の礎を築いた武将の知られざる墓を巡る旅


知られざる太田道灌のもう1つの墓へ。そのスタートは鎌倉の古刹

 

ここは鎌倉にある「寿福寺」。臨済宗建長寺派の寺院であり、かつては鎌倉五山の第三位に数えられたという古刹です。西暦1200年に源頼朝の妻、北条政子が臨済宗の開祖である栄西を招いて開いたという寺院であり、さらに遡れば源頼朝の父である源義朝の居館があった場所だとも言われています。

 

ちなみにインターネットで太田道灌の墓所を検索すると、神奈川県伊勢原市にある墓所が多く紹介されています。にも関わらずなぜ鎌倉?と思う方もいらっしゃるかもしれませんが、鎌倉のこの周辺は太田道灌が生まれた地であり、寿福寺のすぐ近くには、かつて太田道灌の屋敷があった跡と伝わる場所もあり、現在の英勝寺がそれに当たると言われています。

 

寿福寺の境内

 

寿福寺の境内を越えてその裏へ

 

かつて太田道灌が生まれ、住んでいたと伝わる屋敷跡は英勝寺という名前の寺になっていますが、実は太田道灌の墓所もまた、伊勢原市の墓所とは別で、鎌倉のとある場所において見つけました。その墓所は非常に変わった場所に位置しているので、今回はこの寿福寺を通り抜けて、その墓へと向かいます。

 

最初に江戸城を作った男・太田道灌とは?

 

太田道灌の墓へ向かいながら、改めて太田道灌について簡単に整理しておきたいと思います。室町時代の後期、西暦1432年に生まれたと言われる太田道灌は、徳川家康が江戸に本拠地を構えるおよそ130年も前に、江戸に本格的な城を築城した人物と言われます。その他に現在の埼玉県の河越(川越)城や岩槻城を築城したという説もあり、徳川家康よりも前に、関東発展の土台、礎を作った人物だとも言われます。

 

この太田道灌はこの時代に関東で大きな勢力を持っていた、関東管領・上杉家の庶家の1つに仕えた人物でした。ちなみに関東管領とは鎌倉府の長官である鎌倉公方を補佐するための役職だったそうですが、次第に関東の武士を掌握し、鎌倉公方を凌ぐほどの力を持ったと言います。そして鎌倉公方と関東管領は対立し、さらにその後は上杉家の一族同士で対立があり、山内上杉家(こちらがいわば本家)と扇谷上杉家に分かれて勢力争いを繰り広げます。そんな時代の中で太田道灌は庶家の扇谷上杉家に仕え、関東において本家を凌ぐほどの勢力拡大に貢献した武将だと言われます。

 

寿福寺の中門

 

静かな寿福寺の境内を奥まで進むと、こんな感じで目の前に中門が現れ、奥には仏殿が見えます。そしてこの写真の左側には寺の裏へと続く、小さな道があります。ここで左へ曲がり、寺の裏側、すなわち墓地のある場所へと歩いていきます。

 

寿福寺の由来を示す案内板

 

ちなみに寿福寺の裏の墓地には、古くは鎌倉時代の北条政子の墓をはじめ、俳人の高浜虚子、鞍馬天狗などの作品で知られる作家・大佛次郎などの墓もあります。寿福寺の裏には昔から現在に至るまで、多くの人々のお墓があるのです。

 

墓地の一角に現れる案内板

 

そして寿福寺の裏にある墓地の一角にはこんな案内板があります。太陽の光で見えづらくなっていますが、「源氏山公園」の方向を示す案内板です。この源氏山というのは、源氏中興の祖である源八幡太郎義家が、山頂に源氏の象徴とも言える白旗を立て、後三年の役の勝利を祈願したという伝説が残る場所でもあります。現在は公園として整備されていて、鎌倉市民の憩いの場の1つとなっています。

 

源氏山へと続く山道の入り口

 

源氏山公園へと続くその道は、ハイキングコースの一部

 

案内板に従って進むと、こんな感じの山道が現れます。源氏山へと続くこの道は、ちょっとしたハイキングコースになっていて、本日の目的を達成するためには、この道を進んで行く事になります。

 

山道の入り口にある切り通し

 

山道を登っていくと、こんな感じの切り通しのような場所を通過する事になります。大人一人が通れるほどの幅ですが、ここを抜けていく必要があります。そしてここを抜けた後は、源氏山へと続く山道を10分ほど登っていきます。基本的にハイキングの人以外、人通りはほとんどない道ですが、地元の人であれば、散歩で通るという方もいます。

 

太田道灌の墓

 

細い山道の途中にポツンと現れる墓こそが「太田道灌の墓」

 

山道を10分程度登った先にあるのがこのお墓です。道の途中に突然、1つだけポツンとお墓があるので、この山道を通れば気付くと思います。そして立て看板に書かれているのが「太田道灌の墓」という文字。インターネットで検索をすると、太田道灌の墓は神奈川県の伊勢原市にあると出てきますが、太田道灌が自らの主君によって謀殺され、最期を遂げた場所が伊勢原市となっています。それ故に一般的には伊勢原市の墓が太田道灌の墓だと言われます。

 

しかしなぜ鎌倉に、太田道灌の墓がある?

 

実はこの鎌倉の太田道灌の墓は、かつて太田道灌の屋敷があった伝わる場所に建つ、現在の英勝寺と関係しているそうです。英勝寺は西暦1636年、江戸時代に創建されたという鎌倉の中では比較的新しい寺ですが、徳川家康の側室であったお勝の方が、家康の死後に英勝院という名前の尼になり、英勝寺を創建したと言います。

 

そしてこの英勝院(お勝の方)という人物こそが太田道灌の流れを汲む子孫であり、江戸時代の西暦1826年頃に、英勝寺の第6代住持である清吟尼が、この場所に太田道灌の墓を建てたようです。「太田道灌斎大居士」と彫られた石碑があるこの場所は、太田道灌の供養塔であるとも、首塚であるとも伝わります。

 

源氏山の頂上に座る、源頼朝像

 

最後に源氏山の頂上で、鎌倉の街の方角を向いて座っている源頼朝の像をご紹介。太田道灌の墓からさらに10分ほど山道を登っていくと、一気に視界は開け、整備された源氏山公園の景色が広がっていきます。今回はちょっと不思議な場所にある、太田道灌の知られざるもう1つの墓をご紹介する歴史旅でしたが、近隣にはその他の歴史スポット、観光の見所もたくさんあるので、ぜひこの地を訪れてみるのもお薦めですよ!

 

今回訪れた歴史スポット

 

名称:鎌倉にある太田道灌の墓
住所:神奈川県鎌倉市扇ガ谷1丁目付近
アクセス:JR横須賀線「鎌倉駅」から徒歩約25分程度
駐車場:寿福寺近隣にコインパーキングあり

 

plastictレキタビ編集部

歴史スポット巡りや観光、老舗の歴史飯を味わう旅って案外楽しい!と言って頂けるような情報を発信したいと思います。

 

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