鎌倉幕府成立から滅亡まで。鎌倉で幕府ゆかりの史跡スポットを歩く旅13選
神奈川を代表する歴史スポットと言えば古都・鎌倉。鎌倉は日本で初めて本格的な武家政権が誕生した地であり、鎌倉幕府としてかつて政治の中心でもあった街。今回は鎌倉幕府の成立から滅亡に至るまで、その名残りを感じる事ができる史跡スポットをまとめてピックアップ。鎌倉幕府の歴史を今に伝える場所をご紹介していきます。
【1】鶴岡八幡宮
鎌倉駅から徒歩で約10~15分程度。昔も今も鎌倉の中心となっている場所であり、鎌倉を代表する観光スポット。源氏ゆかりの神社であり、源頼朝はもちろん、武家の信仰を集めた神社として知られる。上杉謙信が関東管領を引き継ぐ際に拝賀の式を行った場所とも言われ、豊臣秀吉も北条氏を攻めた際に訪れたとも言われる。境内には静御前が源頼朝の前で舞を披露したと伝わる「舞殿」や、現在は落雷の影響で倒れてしまったものの、鎌倉幕府の3代将軍、源実朝が暗殺された場所である「大銀杏の木」の跡なども見る事ができる。また、境内の一角にある「白旗神社」の祭神は源頼朝となっており、鎌倉幕府の繁栄とルーツを感じさせる場所の1つとなっている。
所在地:神奈川県鎌倉市雪ノ下2丁目1-31
【2】鶴岡八幡宮前に広がる段葛(だんかずら)
鶴岡八幡宮の正面には、八幡宮へと続く参道「段葛(だんかずら)」が広がっている。段葛は源頼朝が造らせたものと言われ、武家の街の象徴とも言える道。現在は若宮大路沿いに二の鳥居から鶴岡八幡宮までの区間の道が整備、残されており、多くの観光客がこの道を歩いて鶴岡八幡宮八幡宮を訪れている。
所在地:神奈川県鎌倉市雪ノ下(若宮大路沿い)
【3】源頼朝の墓
鎌倉駅から徒歩で約20~25分程度、住宅街の中の小高い山裾にひっそりと佇んでいるのが、鎌倉幕府を開いた人物としてもお馴染みの「源頼朝の墓」。付近一帯はかつて鎌倉幕府の御所(大蔵幕府跡)があった場所でもあり、現在も西御門(にしみかど)、東御門(ひがしみかど)などの地名として、当時の幕府の名残りを感じる事ができる。尚、現在目にする事ができる源頼朝の墓は、江戸時代中期に薩摩藩主の島津重豪が整備したものと伝えられている。
所在地:鎌倉市西御門2-1
【4】大蔵幕府跡
源頼朝の墓から歩いて1~2分程度の場所では、大蔵幕府跡の石碑を目にする事ができます。大蔵幕府は源頼朝が幕府を開く際に政治の中心として建てた御所であるものの、現在近隣は住宅街となっており、その歴史は石碑に刻まれるのみとなっている。
所在地:神奈川県鎌倉市雪ノ下3丁目11-45
【5】宇都宮辻子幕府跡
三代執権の北条泰時の時代、幕府は大蔵幕府から宇都宮辻子へと移転したと言われ、約11年間にわたって御所が置かれたとされる場所。その後は新たに若宮大路幕府跡へと移転したと言われているものの、移転先との距離は徒歩約3分程度となっているため、若宮大路幕府跡は、宇都宮辻子幕府跡の建物の拡張とする説もある。
所在地:神奈川県鎌倉市小町2-15
【6】若宮大路幕府跡
1236年から鎌倉幕府が滅亡する1333年までの間に幕府の御所が置かれたとされるのが「若宮大路幕府跡」。段葛の東側の路地を入った裏道周辺がその場所と言われ、現在は石碑がその当時の歴史を伝えている。尚、石碑のすぐそばには「鞍馬天狗」「天皇の世紀」などの作品で知られる作家・大佛次郎の邸宅が現在も残されており、週末のみ「大佛茶廊」として喫茶を楽しむ事もできる。
所在地:鎌倉市雪ノ下1丁目
【7】鎌倉幕府の問注所跡
鎌倉駅の西口から徒歩で約5~10分程度の場所にあるのが「問注所跡」の石碑。問注所とは当時の裁判所の事であり、鎌倉時代当時から訴訟の判断、仲裁などが行われていた場所という事になる。現在付近には大きなマンションが建てられており、石碑から当時の様子を伺い知る状況となっている。
所在地:神奈川県鎌倉市御成町8
【8】鎌倉幕府の政所跡
鎌倉駅から徒歩約10~15分の場所にあるのが「政所跡」。政所とは幕府の政務を司る機構であり、鎌倉時代の政治の中心とも言える場所。鶴岡八幡宮からも徒歩2、3分の距離となっているが、現在近隣には建物が立ち並び、政所の具体的な遺構を確認する事はできない。唯一の手がかりは、建物の端に取り付けられた「政所跡」のプレートのみとなっている。
所在地:神奈川県鎌倉市雪ノ下3-1-32
【9】和田塚(有力御家人和田一族の戦没地)
鎌倉幕府を開く際に大きな貢献を果たした有力御家人であり、初代の侍所長官を務めた人物が和田義盛。源頼朝の死後、北条家が実権を握っていく過程で幕府内に内紛が起こり、北条義時と和田義盛が対立して武力衝突へと発展。和田合戦と呼ばれる合戦の末、和田一族が滅亡した地となっている。現在は和田一族の戦没地と記された石碑が立ち、現在も誰かの手で花が手向けられている。
所在地:神奈川県鎌倉市由比ガ浜2-19
【10】源氏山公園の源頼朝像
鎌倉の街を見下ろす事ができる高台の山が源氏山公園。かつて後三年の役の際、源義家が山の上に白旗を立てて戦勝を祈願した場所とも伝えられている。現在付近一帯は公園として整備されており、鎌倉市民の憩いの場となっている。この源氏山公園には源頼朝像が建てられており、頼朝公の像が鎌倉の街を見下ろす形となっている。
所在地:神奈川県鎌倉市扇ガ谷四丁目7番1
【11】日野俊基の墓
鎌倉時代末期の1331年。幕府の内紛が続く中、京の都では密かに倒幕計画(元弘の変)が進行。後醍醐天皇の意を汲んで倒幕計画の中心となった人物が日野俊基とされ、その後計画が幕府側に漏れ、日野俊基は捕らえられて鎌倉に護送。鎌倉の街を望む山の上、葛原岡で人生の最期を迎えた。現在は源氏山公園の一角に位置し、源頼朝像からも徒歩数分の場所となっている。
所在地:神奈川県鎌倉市梶原5-9-1葛原岡神社境内
【12】稲村ガ崎の古戦場跡
1333年、足利高氏と新田義貞が挙兵し、新田軍が鎌倉へと進軍。本拠地に侵入させまいとする幕府軍の必至の防戦もあり、新田軍は苦戦して一進一退の攻防となる。その際に歴史の分かれ目ともなった古戦場跡がここ稲村ガ崎である。稲村ガ崎さえ突破をすれば、鎌倉の街へ入る事ができるという状況の中、新田義貞が海に太刀を投げ入れて祈願をすると海の潮が引き、海側の岸壁沿いに軍を進める事ができたという話が伝わっている。これにより幕府軍は不意を突かれ、一気に勝敗が決する方向へと進んでいった。
【13】北条高時の腹切りやぐら
鎌倉幕府最後の執権、14代北条高時が最期を迎えた場所とされるのが東勝寺にある「腹切りやぐら」。1333年に足利高氏と新田義貞が挙兵し、新田軍が鎌倉の街を制圧。その際に最期の攻防が行われ、北条高時以下、一族郎党約800人が最期を遂げた場所と言われる。鎌倉駅から徒歩で約15分程度、鎌倉時代に北条家の庇護を受けて栄えたとされる東勝寺は跡形もなくなっており、今は草木の茂る空き地。この地は現在もただならぬ雰囲気が伝わってくる場所であるため、静かに菩提を弔う気持ちで訪れるのが良いだろう。
所在地:神奈川県鎌倉市小町3-11
レキタビ編集部
歴史スポット巡りや観光、老舗の歴史飯を味わう旅って案外楽しい!と言って頂けるような情報を発信したいと思います。
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