源義経の腰越状が残る寺、鎌倉・満福寺で義経と弁慶の足跡を辿る歴史旅
平氏を壇ノ浦で討ち果たした後、源頼朝との関係が急速に悪化した源義経。義経は自ら鎌倉へと向かい、頼朝へ文を書き、自らの疑いを晴らすための機会を求めました。今回は源義経が滞在し、後世に名高い腰越状を書いた場所、満福寺を訪ねる歴史旅をご紹介。
江ノ島のすぐ近く、しらす丼でも有名な「腰越」
ここは鎌倉市腰越。人気観光地である湘南・江ノ島から非常に近く、近隣には腰越漁港もあり、「しらす丼」をはじめとした海の幸の味わいを求める人たちが多く訪れるエリア。この鎌倉の中の漁師町とも言えるエリアの一角には小さなお寺があります。
腰越の小さな寺院は、義経と弁慶が滞在した寺
真言宗大覚寺派の寺院である「満福寺」。寺のすぐ目の前には踏切があり、鎌倉と藤沢をつなぐ路面電車、「江ノ電」が行き交う。ここは一見したところ小さなお寺ではありますが、はるか昔、源義経と弁慶がここに留まり、歴史に名高い「腰越状」を書いた場所だと伝えられています。
訪れた日もちょうど江ノ電が目の前を通過していきました。湘南の海の景色が一望できる、風光明媚な路面電車であるため、この日も多くの観光客の方の姿がありました。
江ノ電の踏切を越えて満福寺の山門へ。小さく、静かな寺院ではありますが、「源義経、弁慶ゆかりの寺」というのぼりはしっかりと立てられています。
山門をくぐって境内へ。左前方には源義経と弁慶の石像が立ち、「義経・腰越状」と書かれた石碑を目にする事ができます。凛々しい武者姿の義経が口頭で書状の中身を伝え、弁慶がそれを書き記す。そんなようなシーンになっています。
義経と弁慶の石像のすぐそばには、こんな石碑がありました。「弁慶の腰掛石」。確か弁慶の出身地と言われる和歌山県田辺市にも同じような腰掛石があったと思いますが、鎌倉にも腰掛石がありました。しかし一見すると、庭の草木に紛れて庭石があるようにしか見えなかったので、危うく見落とすところでした(苦笑)。
義経と弁慶、ゆかりの寺の中へ
満福寺では¥200ほどの拝観料で寺の中が見学できるようになっていて、中へ入ってみるといきなり不動明王様のような襖絵が出迎えてくれます。この不動明王様、ちょっと怖いくらいのリアリティ。そしてすぐ隣の金の大黒様の笑顔との落差がすごい。満福寺、なかなか個性的なお寺のようです。
寺の中にはこんな襖絵の数々が。これは兄である頼朝に直接思いが伝えられず、失意の中で北国へと落ちていく義経と弁慶の姿でしょうか。
この襖絵は義経の子供を産んだ静御前の姿かもしれません。生まれた子は男子であったため、鎌倉の由比ヶ浜に沈められてしまったと言います。この時代の習いとはいえ、こうやってみると鎌倉方の判断は非情ですね・・・。
更には数多の弓矢を受けながらも立ちふさがる弁慶の襖絵。弁慶と義経の壮絶な人生模様を伝える襖絵たち。他にもまだまだ、別のシーンの襖絵がありました。
満福寺で大切に保管されている「腰越状」
そして寺の中のガラスケースに入れられ、一際大切に展示されていたのがこの「腰越状」。達筆すぎて読めないのが申し訳ないですが、思っていた以上に長い文面。写真でも左の方にまだまだ書状は続いています。
兄である頼朝へ送られたであろう腰越状がなぜここに?と疑問に思ったのですが、こちらは清書ではなく、弁慶が書き損じてしまったものが今も寺に残され、保存されているようです。
ちなみにWikipediaにはこの腰越状の全文が掲載されています(参考リンク)。ここでは全てをご紹介できませんが、短くまとめると以下のような内容だったそうです。
腰越状の中身をざっくり要約してみると
朝敵である平氏を滅ぼし、先祖の恥にも報いたものの、讒言によって足止めされ、お叱りを受けている。功績はあっても罪はない身だと思うのでむなしく悲しい。その上鎌倉にも入れてもらえず、面会も叶わず、むなしく数日を過ごしていて、とても残念です。
私(義経)には野心などありません。それにも関わらずお叱りを受け、一体どのようにすれば良いでしょうか。もはや神仏のご加護に頼るしかないのでしょうか。何度か文を差し上げたものの、未だにお許しは頂けていません。せめてものご慈悲で、私の想いを頼朝公に伝えて頂きたい。もし疑いが晴れたなら、平安と幸福を得たいと思っているのです。
そばには「腰越状草案のいわれ」というエピソードもありました。少しオーバーに感じる内容ではありますが、義経と苦楽を共にし続けた弁慶は本当に忠臣ですよね。
満福寺の中には弁慶が所用したと伝えられている椀もありました。椀の一部は欠けていましたが、かなり古いもののようです。
再び境内を歩くと、様々な碑が立っていました
再び外へ出て境内を歩いてみると、「弁慶の手玉石」という碑もありました。怪力と言われた弁慶が手玉にとった石のようですが、確かに大きくて重そう。普通の人ならぎっくり腰になるかも・・・。
思わず、えっ?寺のトイレの前にも「義経公の手洗井戸」
満福寺の境内の裏にはお手洗いもあったのですが、なんとお手洗いの場所にも「義経公手洗の井戸」という碑が。ここまで細かに色々な碑があると、思わず苦笑いしてしまうほどかも。しかし寺に留まって腰越状を書き、返事を待っていたでしょうから、確かに義経公もこの辺りで手を洗ったのかも(笑)。
更に境内を歩いてみると、義経と弁慶が腰越状を書くにあたり、硯の墨用の水を汲んだという池も。
こちらが「硯の池」の中の現在の様子。今は鯉たちが住み、のんびりと泳ぎ回っています。
境内の裏山へ続く道には「茶房・宿坊 義経庵」という看板も。裏山の義経庵は、満福寺の檀家の方々のお墓の奥の方にあり、一戸建ての住宅を利用したような喫茶店、宿坊になっていました。
最後に満福寺の裏山からの景色を。腰越から鎌倉方面を向いた時の景色です。今は目の前に住宅街が広がっていますが、はるか昔に源義経と弁慶もここから鎌倉の方向を眺め、頼朝からの返事を待ち続けたのかもしれません。
義経と弁慶にとって、満福寺での滞在期間は人生の大きなターニングポイントになったかもしれません。自分が直接会って話をすれば、頼朝もきっとわかってくれる。そんな風な思いが絶えていき、今後の頼朝との関係について、ここで1つの決断を下だして西へと立ち去ったかもしれません。義経と弁慶にとって、この寺での出来事は、忘れられないものになっただろうと思います。
今回訪れた歴史スポット
名称:満福寺
住所:神奈川県鎌倉市腰越2丁目4-8
アクセス:江ノ電「腰越駅」から徒歩約5分
駐車場:約15台分程度の無料駐車場あり
ニホンタビ編集部
歴史スポット巡りや観光、老舗の歴史飯を味わう旅って案外楽しい!と言って頂けるような情報を発信したいと思います。
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