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天空の絶景で名高い竹田城と生野銀山をさらに深く知る旅へ。全国屈指の遺構と埋蔵金伝承

記事公開日:2016/03/28

天空の城と呼ばれる「竹田城跡」。そして最盛期には全国の78%もの銀を算出したという「生野銀山」。今回はかつての但馬の国、現在の兵庫県朝来市を訪れ、絶景で名高い山城と、時代の支配者たちを動かした銀山のさらに奥深い味わい方をご紹介。400年の歴史を今に伝える全国屈指の石垣遺構と、数々の埋蔵金伝承に触れる旅へとご案内します。

天空の城と呼ばれる竹田城跡


天空の城と呼ばれる「竹田城跡」。雲海に浮かび上がるこの城の姿は息を呑むほどの絶景だと評判です。ここはつい数年前までは年間約2万人程度が訪れる城郭マニアのための城でしたが、今では映画や様々なメディアで紹介されて人気が高まり、昨年は約50万人を超える訪問者が訪れるまでになっています。

 

未だ多くの謎に包まれている竹田城

 

竹田城の築城時期については未だ確固たる資料が見られず、江戸時代の「和田上道氏日記」に嘉吉年間(1441年)の安井ノ城築城と記されている事例と、嘉吉3年、山名持豊(宗全)の築城という伝承があるのみです。この城の初代城主についても、応永7年(1400年)頃の太田垣通泰(みちやす)であろうという推定の域を出ていません。城跡の下の曲輪跡は南北朝時代の様相を呈しているという所見もあり、この城の起源については未だ検証課題とされています。

 

また、城跡内に礎石などの遺構はありますが、絵図などの史料は残されておらず、廃城時に全て破却されたと考えられています。そのため、建物の形状や配置は全くわかっておらず、謎のままのようです。

 

戦国時代の渦に飲み込まれ、時代の支配者の手に渡る

 

竹田城は7代に渡る太田垣氏の時代を経て、永禄12年(1569年)の豊臣秀吉による但馬に攻めに続き、天正5年(1577年)と天正8年(1580年)の秀吉軍の但馬攻略で落城する事となります。そして天正13年(1585年)には赤松広秀が城主となり、その後は10数年かけて城郭を整備し、現在の形になったと言われています。

 

尚、赤松広秀に関しては、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後に、徳川方として鳥取城攻めで戦功をあげますが、城下に火を放った事を咎められてしまい、徳川家康から切腹を命じられてしまいます。これは敵対者に諮られたものとも言われますが、一説には徳川家康の企みとも言われる謎の死でした。

 

遠方から望む竹田城の石垣

 

全国屈指の石垣遺構。美しい石垣は400年の姿を今に伝える

 

その後、竹田城は江戸幕府の命によって廃城となりますが、その際も石垣は壊されずに残り、当時の石組みを今に伝えています。竹田城の斑状花崗岩の石積みは、大きさや形状の違う石の配置を見極めて積む「野面積み」となっていて、目地を通す方式に近い「布崩し積み」で組まれています。

 

この石垣の野面積みは、隙間が多くて素朴な石組みではありますが、排水機能が良く、強度にも優れ、修復しながらも400年間ここに残されています。この竹田城のような「総石垣」の城跡は国内でも珍しく、山城として稀少な景観を伝えてくれています。南北400m、東西100mに完存している石垣遺構としては全国屈指の史跡なのです。

 

野面積みされた石垣の様子

 

南千畳正面虎口の石垣。大きな「鏡石」があり、角石の「縦積み」の石組みもあり、さらに未完成ながらも「反り」や「打込接」も一部に見られます。これらの組み方の理由も謎のままですが、近世の石垣構造を先取りしているとも言われる特徴的な構造です。

 

少し離れて見る石垣遺構の様子

 

時代の支配者たちが竹田城を何としても「取りたかった」理由

 

竹田城のある兵庫県朝来市は県内のほぼ中央に位置し、この地は但馬、播磨、丹波に通じる交通の要衝でもあった事から、軍事面でも要となっていました。豊臣秀吉は3度もの攻撃でこの但馬を攻め取りますが、豊臣秀吉の真の狙いは竹田城から程近い「生野銀山」を手中に収めることにあったと言われます。これは織田信長や豊臣秀吉にとって、経済面の基盤を磐石にするとともに、天下統一への軍資金を得ることが目的だったとも言われます。

 

城下町を望む景色

 

織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の財政を支えた「生野銀山」

 

史跡・生野銀山の入り口

 

竹田城跡から南へ15kmほどの山あいには「生野銀山跡」が残されています。この生野銀山は大同2年(807年)に最初に発見されたと言われ、天文11年(1542年)には但馬守護職の山名祐豊(すけとよ)が銀鉱石を掘り出したのが本格的な銀山としての起源だと言われます。永禄10年(1567年)には日本最大の鉱脈が発見され、「銀山旧記」には「銀が出ること土砂のごとし」と記されるほどの産出量を誇りました。

 

生野銀山の坑道へ

 

この生野銀山を手に入れた豊臣秀吉は積極的な鉱山開発を推し進め、慶長2年(1597年)には但馬の運上銀が全国の78%を占めたとも言われます。その後の江戸時代になっても生野銀山は天領として栄え、佐渡金山、石見銀山とともに徳川時代の財政を支えていきます。

 

坑道の内部の様子①

 

現在の生野銀山は地元の朝来市生野町によって、重要文化的景観「生野鉱山及び鉱山町の文化的景観」となっています(平成26年)。

 

坑道の内部の様子②

 

竹田城と生野銀山に伝わる「埋蔵金伝説」

 

織田信長、豊臣秀吉、徳川家康などの天下人の注目を集めた但馬の地ですが、歴史の中には埋蔵金に関する伝説も残されていました。

 

竹田城に伝わる埋蔵金の伝承

 

「黄金千両 銀千両 城のまわりを七まわり また七まわり七もどり 三つ葉うつぎのその下の六三がやどの下にある」と伝わる歌があります。これは水源の場所を示しているとも言われますが、それが定説にはなっていません。また、近くの「建屋うすぎ城跡」との関連を表しているという説もありますが、具体的な手がかりは無く謎のままとなっています。

 

生野銀山に伝わる埋蔵金の伝承

 

この伝承は「勘定奉行の幡野三郎が秀吉の軍資金を生野銀山に埋めた」というものですが、近くの川辺郡の「多田銀銅山」に伝わっている秀吉4億5千万両の埋蔵金伝説の派生で、秘文書を残した幡野三郎が生野銀山に秘匿したというものです。確かに「多田銀銅山」に伝わる秀吉の埋蔵金は未だ発見されておらず、世間に知れ渡るような場所に隠すはずがないだろうと思えば、「意外な場所」が狙い目なのかもしれません。

 

生野銀山を訪れる観光客

 

さらに明智光秀の埋蔵金の伝承も

 

さらに明智光秀が天正6年(1578年)、丹波を制圧した際に築城した金山城の周辺に財宝を埋めたという伝承もあります。地元には明智光秀が「金山の 尾の尾の先の尾の先に 朝日照らす木のもとに 小判千両 有り明の月」と書き残したという言い伝えが残されています。

 

また、ここは鉱山が多い地域であったせいか、埋蔵金とは異なりますが、鉱山王と言われた実業家「五代友厚」が朝来市の旧鉱脈「神子畑(みこばた)」鉱山の再調査を行い、新たな鉱脈を発見したとも言われます。

 

竹田城跡の絶景①

 

遠くから望む竹田城も良いけれど、竹田城から眺める景観もまた見事

 

立雲峡からの雲海に浮かぶ「竹田城跡」の景観は最高の絶景ですが、この絶景を目にするためには季節とタイミングと運が必要になります。遠くから望む竹田城跡の絶景も良いものですが、竹田城跡から見る周囲の景観と400年の歴史を伝える石垣もまた見事です。かつて豊臣秀吉も眺めたであろうこの景観、その秀吉の立ち姿を思い浮かべながら、謎が残されたこの城下の景色を眺めてみるのもまた格別です。

 

竹田城跡の絶景②

 

最後に1つ、最近の竹田城跡は安全面への配慮などの理由で、到着するまでに歩く距離が長くなっています。また、生野銀山では昔の坑道を見ることもできますが、その内部は年間を通じて15℃前後となっているため、気温に関しては気をつけた方が良いと思いますよ。

 

今回ご紹介した兵庫・朝来旅のスポット

 

名称:竹田城跡
住所:兵庫県朝来市和田山町竹田古城山169番地
アクセス:JR播但線竹田駅下車、駅裏の登山道から徒歩約40分

名称:生野銀山
住所:兵庫県朝来市生野町小野33-5
アクセス:JR播但線生野駅下車、バスで約8分、生野銀山口で下車し徒歩約10分

 

播磨翁播磨翁

兵庫県の播磨国に在住。ワクワク出来る歴史旅をご紹介できれば幸いです。個人的には謎がありそうなディープな歴史が好きです。

 

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