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西の法隆寺と称される鶴林寺、珍しい文化財が多数残る播磨の古刹の魅力に触れる旅

記事公開日:2016/03/12

「西の法隆寺」とも称され、聖徳太子ゆかりの古刹と言われる兵庫県加古川市の「鶴林寺」。今回は2つの国宝と18の重要文化財などを有し、傑作と言われる本堂やウインクする仏像、あいたた!と声をあげたという観音様などが残るこの寺の魅力や伝承に触れる兵庫旅へとご案内します。

鶴林寺の山門


鶴林寺の創建と聖徳太子にまつわる伝承

 

「鶴林寺(かくりんじ)」の由緒によると、6世紀の中頃、物部氏ら排仏派による迫害を逃れ、播磨の地には高句麗の僧「恵便(えべん)」法師が身を隠していた。このことを聞いた聖徳太子はこの地を訪ね、恵便法師から仏教の教えを受け、崇峻天皇2年(589年)にここに精舎を建立したと伝承されます。

 

そして養老2年(718年)に武蔵野国大目身人部春則が七堂伽藍を建立。平安時代には鳥羽天皇から直額を賜り、寺号を「刀田山鶴林寺」と改めたと伝わります。その後は聖徳太子信仰の高まりで鎌倉・室町時代に最盛期を迎え、その寺領は2万5千石もの規模であったと言われます。

 

国宝の本堂は折衷様式の傑作。内陣の秘仏五体像は60年に一度開帳される

 

国宝の本堂

 

鶴林寺の本堂は室町時代の応永4年(1397年)に再建され、その重厚な造りは昭和27年(1952年)、国宝にも指定されています。

 

本堂の内部

 

注目すべき点は本堂外陣の天井部で、和様、禅宗(唐)様、大仏(天竺)様の3種の様式で組まれています。和様の格天井には大仏様の太い梁が通り、入り口付近のS字型の梁は「海老虹梁」と呼ばれる禅宗様となっていて、その見事な造作は折衷様式の傑作とも言われています。また、内陣には「秘仏五体像」が厨子の中に置かれています。

 

安置される秘仏五体像

 

本堂の中には宮殿(くうでん)があり、平安時代中期の「薬師三尊像(本尊薬師如来、日光菩薩、月光菩薩)」と、両脇に「二天像(持国天、多聞天)」が厨子の中に安置されています(重要文化財)。これらは「秘仏五体像」と呼ばれ、特別拝観を除いて60年毎のご開帳となっていて、次に目にする事ができるのは平成69年(2057年)、約40年後となっています。

 

兵庫県最古の木造建築・国宝「太子堂」には、寺名のルーツが残る

 

国宝の太子堂

 

平安時代建立の太子堂。こちらの屋根は檜皮葺きの宝形造で、元来は「法華堂」なのですが、堂内に聖徳太子像があるために「太子堂」と呼ばれています。鎌倉時代には礼堂が増築されて、主屋との境で軒先の線が折れる「縋破風(すがるはふ)」形状になっています。法華堂・常行堂が並び建つのは天台伽藍の特徴ですが、この鶴林寺にその最古の例が残っているのだと言われます。

 

内陣には釈迦三尊を祭祀し、さらに聖徳太子を祭る厨子が配置されています。壁面は煤けて黒くなっていますが、平安時代の壁画が残されていると伝わっていました。その事は昭和51年に、赤外線写真によって「九品来迎図」「仏涅槃図」が実際に確認され、その後重要文化財となりました。

 

太子堂の内部

 

太子堂の内部(横から)。煤に覆われ、黒ずんだ柱や壁が見えます。

 

壁画の仏涅槃図

 

こちらが太子堂の中の壁画「仏涅槃図(重要文化財)」。赤外線写真で浮き上がった涅槃図です。左右に沙羅が林立して描かれ、釈迦入滅時にその沙羅双樹が鶴の羽のように白く変って枯れるという涅槃の意から、この寺を「鶴林寺」と名付けたと伝わっています。

 

三重塔

 

こちらは室町時代建立の三重塔です。江戸時代に大修理が行われましたが、近年放火のために内部が損傷し、1980年に解体修復されました。裏鬼門の南西隅には「三面の鬼瓦」が置かれています。

 

三面の鬼瓦

※写真は三重塔の三面の鬼瓦

 

新薬師堂には、ウインクする仏像がある

 

新薬師堂の内部

 

ウインクする摩虎羅(まこら)大将像

※写真はまさにウインクしているような摩虎羅(まこら)大将像

 

新薬師堂には十二神将立像が置かれていますが、2016年の申年の像「摩虎羅(まこら)大将像」は「ウインクする仏像」としてテレビなどでも話題になりました。ちなみこのウインク、実際には持っていた矢のゆがみを確認している姿なのだそうです。

 

観音様の「あいたた」という声が聞こえたという、「あいたた観音」

 

聖観音立像

 

こちらは優美な立ち姿が印象的な白鳳時代の聖観音立像(重要文化財)。1935年と1963年に盗難に遭ってしまいますが、その度に返還されているという不思議な像です。盗難事件の折に天衣の一部を損傷したものの、現在は修復され、防犯のために宝物殿に置かれています。この像は昔から何度も盗難にあったようですが、その時に泥棒が金を溶かし取ろうと考えて像の腰部を槌で叩くと、観音様の「あいたた」という声が聞こえ、罪を懺悔して像を返還しに来たという話が残されています。

 

播磨の国に今も残る、聖徳太子との繋がり

 

「日本書紀」の巻二十には、敏達天皇13年(584年)の頃、百済からの仏像2体を受けた蘇我馬子は、播磨国にいた僧・高句麗の「恵便(えべん)」を見出し、仏法の師としたと記されています。また「日本書紀」巻二十二には、推古天皇14年(606年)に聖徳太子が法華経などを天皇に講じ、喜んだ天皇は播磨国の水田100町を与えた。そして聖徳太子はこの地を斑鳩寺に納めたと記されています。姫路の西の太子町には「斑鳩寺(はんきゅうじ)」という太子ゆかりのお寺が残っています。加古川流域には聖徳太子が造らせたと伝わる最古の用水路「五箇井」があり、基準位置に使ったという「太子岩」という岩礁も残されています。

 

日本に仏教が伝来したのは一般的に538年頃と言われていますが、その前後の時代から既に個々には伝わっていたとも言われます。この頃、播磨の国にも仏教関連の文化が伝わっていて、大和朝廷とも交流があった事がうかがえます。

 

鶴林寺の境内

 

いくつもの危機を乗り越え、多数の文化財を伝える鶴林寺

 

室町時代に2万5千石もの寺領を誇った鶴林寺ですが、戦国時代に入ってからは織田信長、豊臣秀吉による中国攻めなどで取り壊しの危機が訪れます。この時に黒田孝高(官兵衛)の助言で寺領を差し出し、寺社自体は守られましたが、寺領は200石までに減らされてしまいます。また、江戸時代の宗教政策の影響も受けて衰退していきますが、仏僧たちの努力で寺は守り続けられました。

 

時代ごとにいくつもの危機を乗り越えてきた鶴林寺ですが、そこには古い伽藍や宝物など、多くの文化財が残され、今も聖徳太子信仰の古刹として受け継がれています。近隣の人々からは「刀田の太子さん」と呼ばれ、21世紀の今日も親しまれ続けています。

 

今回ご紹介した兵庫・加古川旅のスポット

 

名称:鶴林寺(かくりんじ)
住所:兵庫県加古川市加古川町北在家424
アクセス:JR加古川駅下車かこバス8分

 

播磨翁播磨翁

兵庫県の播磨国に在住。ワクワク出来る歴史旅をご紹介できれば幸いです。個人的には謎がありそうなディープな歴史が好きです。

 

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