雲海に浮かぶ備中松山城、日本最高所の現存天守でもう1つの天空の城の景色を知る旅へ
日本100名城、そして日本三大山城の1つにも数えられている岡山県高梁市の「備中松山城」。この城は標高430mの臥牛山上に位置し、秋から春にかけての時期は幻想的な雲海の光景が広がるスポットとしても知られています。今回は江戸時代に建てられた天守や櫓などが遺る日本最高所の現存天守で、天空の城のロマンに浸る旅へとご案内します。
※写真は雲海に浮かぶ備中松山城。高梁盆地では秋から春にかけて、早朝に雲海を見ることができます。雲海に浮かぶ備中松山城の姿は幻想的で、人気の撮影スポットにもなっています
日本最高所、標高430mの山上に聳える日本100名城、日本三大山城の現存天守
岡山県高梁市にある「備中松山城」。別名、高梁城と呼ばれるこの城は、高梁盆地の北端に聳える臥牛山上の山城です。ここは国の史跡とされ、現存天守を持つ城としては日本最高所(標高430m)に位置し、江戸時代の17世紀後半に建造された天守となっていて、二重櫓などは国の重要文化財にも指定されています。他にも石垣、門、土塀などが当時のままに遺され、日本100名城、さらには日本三大山城の1つともされているスポットです。また、この備中松山城は朝霧の中で発生する雲海の幻想的な美しさでも知られ、有名な竹田城に加え、もう1つの天空の城とも呼ばれています。
※写真は山上にある備中松山城の本丸
交通の要衝として、争奪の的になった備中松山城のストーリー
備中松山城は鎌倉時代、有漢郷(高梁市有漢町)の地頭、秋庭氏が臥牛山の一峰、大松山に城を築いたことを起源とし、中世、戦国時代を経て、現在見られる天守などの遺構は、天和元年(1681年)に備中松山藩主、水谷勝宗が造営したものとされています。
はるか昔からこの地は山陽と山陰を結ぶ要地であり、戦国時代には激しい争奪戦が行われ、三村氏、庄氏、毛利氏などの間で城主の交代が繰り返されました。そして関ヶ原の戦いの後に徳川幕府は小堀氏を城番として置き、江戸時代には備中松山藩主の池田氏、水谷氏、安藤氏、石川氏が転封や無嗣断絶などによって入れ替わり、最後の藩主、板倉氏の時代に明治維新を迎えています。
明治時代に入ってからは、廃城令によって麓の御殿「御根小屋」が取り壊されてしまいましたが、山上の建物群は不便な場所であったため解体されずに放置され、昭和16年(1941年)に天守と二重櫓などが当時の国宝(重文)に、そして昭和31年(1956年)には国の史跡に指定されました。また、平成6年(1994年)からは本丸の整備が行われ、天守、平櫓、御門などが修復、復元されています。
※写真は備中松山城の天守(重要文化財)。白い漆喰が青空に映え、小ぶりながらも美しい姿を見せています
高梁駅から山上の城址へは、乗り合いタクシーで行くのがおすすめ
備中松山城は、臥牛山の一峰である小松山の山頂に本丸、二の丸、三の丸が階段状に配されています。山麓には「御根小屋」と呼ばれる御殿が構えられ、藩主の起居、藩の政務などはこの場所で行われました。この小松山山頂の城址へは、高梁駅から山腹のふいご峠まで乗り合いタクシーが出ていて、ふいご峠から城址までは徒歩で20分ほどとなっています。途中の道は整備されているものの、歩きやすい靴で行くのがおすすめです。
また、大手門の周辺には高さ10m以上の岩壁や石垣が聳え、城内に入れば壮大な石垣群を経て三の丸、二の丸から本丸へと登る事になります。本丸は南御門をはじめ、五の平櫓、六の平櫓などが復元され、奥には2層2階の複合式望楼型の天守が聳え、白い漆喰の壁と黒い腰板が美しいコントラストを見せています。
※写真は備中松山城の天守周辺
※写真は大手門周辺、岩盤上の城壁。周囲は切り立ち、難攻不落の山城と呼ばれた時代の面影を感じさせてくれます。
尚、高梁市観光ガイドサイトの情報によると、備中松山城の雲海が発生する時期は、毎年9月上旬から4月下旬の明け方から午前8時頃にかけてとされています。天候がよく、早朝と日中の気温差が大きな日に、この幻想的な雲海の光景に出会える可能性が高いそうですよ。
今回ご紹介した岡山県高梁市の旅行スポット
名称:備中松山城(高梁城)
住所:岡山県高梁市内山下
アクセス:JR伯備線「備中高梁駅」から乗り合いタクシー(1日4往復、要予約、片道420円)「ふいご峠」より徒歩約20分
開城時間:4月~9月 9:00~17:30、10月~3月 9:00~16:30
入城料:大人300円、小中学生150円
参考リンク:高梁市公式ホームページ「備中松山城」
あらき 獏(ばく)
情報誌の編集者を経て、現在は文化、歴史系フリーライター。歴史を側面から探ることで、歴史の謎解きを楽しんでいます。
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