風情溢れる但馬の小京都・出石。時計台に皿そば、出石城と近畿最古の芝居小屋を巡る旅
兵庫県但馬の北部にある豊岡市出石町。ここは古事記にも登場し、江戸時代には出石藩の城下町として栄えました。街並みの中には武家屋敷や名僧・沢庵和尚ゆかりの禅寺、300年の伝統を持つ「出石そば」にレトロな芝居小屋など、独自の歴史を刻んできた魅力が満載となっています。今回は時代をタイムスリップしたような風情が溢れる但馬の小京都、「出石」の素晴らしさを伝えていきたいと思います。
街の中で最初に目に入ったのは出石町のシンボルである「辰鼓楼(しんころう)」。8時(辰の刻)に太鼓を鳴らした楼閣であり、明治14年に現在のような時計となり、札幌時計台と並ぶ日本最古の時計台として現在も時を刻んでいます。
古事記・日本書紀に伝わる出石の歴史
古事記ではその昔、天之日矛(アメノヒボコ)が新羅から渡ってきたと言います。さらに播磨国風土記などでは、伊和大神との国占め争いで但馬に入った後、この地を肥沃地にした蹴裂伝説や製鉄技術の渡来など、古代史上の重要な伝承が残されています。近年は袴狭遺跡で16隻もの船が描かれた「船団線刻画木製品」が発掘され、当時の大陸との交流が裏付けられています。
室町時代の一大勢力、山名氏を起源とする「出石城」
応安5年(1372年)、但馬国守護の山名時義は此隅山城を築き、ここを長く山名氏の本拠とします。そして戦国時代、豊臣秀吉の但馬攻めによって山名氏は衰退。その後文禄4年(1595年)に小出吉政が山上の有子山城主となり、江戸時代に小出吉英が麓に梯郭式の「出石城」を築城します。
※写真は出石城の本丸「西の隅櫓」
その後は信濃国・上田藩の仙石氏が藩主となる
上田藩と言えば真田家が有名ですが、関が原の戦いの後には真田家の長男、真田信之の統治を経て仙石氏が治めていました。しかし宝永3年(1706年)に出石の小出氏の無嗣断絶に伴って、上田藩を治めていた仙石政明が但馬国に移封され、ここ出石の藩主となっています。
「お城坂」と呼ばれる稲荷参道
ここは出石城の稲荷曲輪、有子山稲荷社(ありこやまいなり)への参道です。157段の石段と37基の鳥居が並び、出石城の本丸へも繋がる、苔むした趣のある登城道となっています。
出石が誇る近畿最古の芝居小屋「永楽館」へ
ここは明治34年に開館し、近畿地方に唯一現存する芝居小屋「永楽館」。原型は明治7年の野天の歌舞伎舞台と言われますが、この常設小屋は紺屋(当時の染物屋)の小幡氏の私財で創設されています。創設当初は活況を呈しますが、テレビの普及とともに次第に低迷し、昭和39年に閉館を余儀なくされました。
しかし、この復活に立ち上がったのが地元の「出石城下町を活かす会」の人々。その情熱と歴史的価値に注目した中貝豊岡市長は復元に着手し、平成20年に大改修を行なって44年ぶりに甦りました。この新たな永楽館の柿落(こけらおとし)公演では、歌舞伎役者6代目片岡愛之助さんが落成を祝い、「操り三番叟(さんばそう)」を舞ったそうです。それ以来永楽館では毎年歌舞伎を上演しています。
しかし368席のこの芝居小屋の裏方を、ボランティアでこなしても維持するのはとても大変だと思います。一方で片岡愛之助さんは「町に1つ芝居小屋があって、庶民の娯楽として親しまれた頃の風景が甦るのは本当に素敵です」と語っているそうです。そこには演者の気持ちと出石の街の自主自立を支えていこうとする人々の気風があるようにも思えます。
訪れた時には、「今年も愛之助さんの11月公演決まりました!」と速報が配られていました。案内の方が「奥さん(藤原紀香さん)も一緒に来られたらいいですね。きっと出石中で大歓迎になるでしょうね」とにこやかに話されていたのが印象的でした。
客席の間を通る「花道」。桟敷に二階の升席、そして天井近くにかかるレトロな看板。ここにはなんとも言えない風情が残されています。
そしてここは舞台下の「奈落」。人力でまわす「廻り舞台」と右奥には役者が上がる「セリ」が。普段は見ることができない舞台裏ですが、公演がない日は見学ができるようになっていて、人気の場所なのだそうです。
出石と言えば、300年の歴史を持つ「出石皿そば」もハズせない
宝永3年(1706年)、信濃・上田藩から移封された仙石氏によって伝えられたという、「挽きたて」「打ち立て」「茹で立て」の「三たて」で作られる「出石そば」。出石焼きの白皿に小分けされ、5皿で一人前が標準なのだそう。生卵やおろし、ネギなどはお好みで。そして最後の「そば湯」も定番です。
中には食べた皿数によって「皿そば之証」が貰え、それを5枚貯めると1年間無料になる「そば通の証」などの特典がある店もあるのだそうです。店の方にこれまで一番多くの皿数を食べた人の事を聞くと、「71皿が最高だね。それでもまだ腹八分目!」と言っていたのだそうです。そば店は街中に37店もありますが、「ミシュランガイド兵庫2016特別版」に掲載された出石そば屋の店も6軒ほどあるようです。
※写真は「皿そば之証」と「そば通の証」
沢庵和尚で有名な宗鏡寺、通称「沢庵寺」へ
ここは沢庵和尚作の「鶴亀の庭」。池の中の石が「亀」、左の植木類が「鶴」なのだそうです。天正元年(1573年)に但馬国出石で生まれた沢庵宗彭(そうほう)は、出家して13歳で宗鏡寺に入ります。そして修学を積み、慶長14年(1609年)に京都・大徳寺第153世の住職になりますが、名聞を嫌い、僅か数日で大徳寺を去ったと言われます。
ここは沢庵和尚作の「心字の池」。「心」という文字を表している池なのだそうです。沢庵宗彭は「清貧を喜び、名利を望まない」禅僧で、時の将軍・徳川家光からの信頼も厚く、求められて相談役にもなり、晩年には家光に近侍しています。また、柳生宗矩(むねのり)とも懇意で、「剣禅一如」の境地を説きました。
沢庵和尚と将軍家光のエピソードが、あの「沢庵漬け」に
「沢庵漬け」は元々、「貯え漬け」と呼ばれる保存食でした。諸説はありますが宗鏡寺の由緒によると、質素を好む沢庵和尚が将軍家光にこの漬物を献上したところ、大変美味だと気に入って、「名前がないのならば沢庵漬けと呼ぶべし」と言ったことから、「沢庵漬け」という名前が広がったと伝わります。
宗鏡寺の一番奥まった場所にあるのが「投淵軒」。48歳で出石に戻った沢庵和尚は、四畳半一間の庵を結んでここで8年間隠棲しています。
宮本武蔵と沢庵和尚
沢庵和尚は時の将軍さえも諭す、高邁な和尚でした。ちなみに作家の吉川英治は「小説・宮本武蔵」の中で、武蔵に物の理を教える師匠として沢庵和尚を登場させています。史実的にはニ人が巡り合った痕跡はありませんが、共に同じ時代を生きた高僧と剣豪を絡ませ、小説・武蔵の生涯に彩を添えたと言われます。
地酒「楽々鶴」で知られる出石酒造。赤い土壁造りの酒蔵が歴史の重みを感じさせてくれます。
出石の街は東西、南北ともに約600m四方のこじんまりした街並みで、武家屋敷や町屋を眺めながら散策しても、2時間ほどで多くの見所を堪能する事ができます。
過ぎし時代の面影を残す出石の街並みは、平成19年に国の重要伝統的建造物保存地区に指定されています。貴重な時計台と出石城、そして近畿最古の芝居小屋に出石皿そば。ここは都会とは時間の流れ方が全く違う山間の城下町。皆さんもぜひこの情緒に一度は触れてみてください。
今回訪れた兵庫県豊岡市のスポット
名称:出石町の街並み
住所:兵庫県豊岡市出石町
アクセス:京都から特急電車で約2時間半。JR山陰本線「豊岡駅」下車、出石行き全但バスで30分
播磨翁
兵庫県の播磨国に在住。ワクワク出来る歴史旅をご紹介できれば幸いです。個人的には謎がありそうなディープな歴史が好きです。
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