日本最古の五重天守を持つ松本城、北アルプスを背景に400年超の時を刻む天守の秘話を知る旅
現存する日本最古の五重天守。そして北アルプスの山並みを背景に見事な景観を見せる「松本城」。今現在は国宝ともされるこの天守にも、かつては存続の危機がありました。今回は改めて長野県松本市の人々が誇る松本城を訪れ、この美しい天守を守り抜いた男たちの熱い想いを感じ取る旅へとご案内します。
※写真は水面に美しい姿を映す松本城の天守
松本城の天守は現存する日本最古の五重天守
松本城の五重六階の天守は文禄年間(1593年~1594年)に建てられたもの。それから400年余りの風雪に耐え、戦国時代そのままに今も残されています。そんなこの城は、兵庫県の姫路城、滋賀県の彦根城、愛知県の犬山城とともに、日本の4大国宝城郭の1つともされています。
また、天守を現存させる城は全国に12しかなく、そのうちで五重天守を持つ城は松本城と姫路城だけ。文禄年間に建築された松本城の天守は、日本最古の五重天守なのです。
※写真は北アルプスの山並みを背景にした天守の姿。絵はがきのような佳景は、松本のシンボルとして多くの人に愛されています
※写真は本丸から望む天守。五重六階の大天守を中心に、北に乾小天守を渡櫓で連結し、東に辰巳附櫓、月見櫓を付けた複合連結式の天守。月見櫓は朱塗りの欄干を配した月見のための風雅な櫓で、平和な時代が続いた寛永年代に増設されたもの
戦国大名による争奪戦や藩主の交代など、歴史に翻弄されてきた松本城
かつて松本の地は信濃の守護、小笠原氏の拠点でした。戦国時代の永正年間、小笠原氏は居城、林城の前衛の支城として「深志城」を築城します。そしてこの深志城が松本城の前身とされます。その後に甲斐の武田氏の信濃侵攻、織田信長による支配を経て、徳川氏配下となった小笠原氏による旧領回復時に「松本城」と改名されています。
また、天正18年(1590年)、秀吉による小田原征伐の後、徳川氏が関東へと移封されると、松本城には秀吉配下の石川数正が入り、天守をはじめとした城郭や城下町の整備を行います。その後は再びの小笠原氏入城を経て、松平家や水野家、戸田松平家など、藩主の交代が繰り返されました。
※写真は黒壁を水堀に映す天守。黒い外観の松本城は「烏(からす)城」とも呼ばれます。壁面の下部を黒漆塗りの下見板で覆った外観が特徴的で、漆喰の白とのコントラストがまた美しさを際立たせています
※写真は本丸から望む天守。松本城は典型的な平城で、水堀で隔てられた本丸、二の丸、三の丸は方形に整えられ、梯郭式に輪郭式を加えた縄張りとされます。城域は国の史跡であり、松本城公園として整備されています
明治期の危機。天守を守り抜いた男たちの熱い戦いを知る
松本城の天守に関しては、幾たびか存続の危機がありました。明治維新後の版籍奉還、廃藩置県を経て、明治4年(1871年)に松本城は廃城となってしまいます。そしてその翌年には大蔵省によって競売にかけられ、天守は309両で落札されてしまいます。そして老朽化した天守は取り壊しの危機にさらされるのです。
当時、松本で戸長を務めていた青年の「市川量造」は、「城が無くなれば松本は骨を無くす」と、自らが発行する「信飛新聞」上で訴え、家伝の蔵書を売り、城内で博覧会を開催して入場料を得るなどして資金を工面し、遂に天守を買い戻して解体の危機から救いました。
しかし、明治30年代頃からは天守が大きく傾き、今度は倒壊の危機に晒されてしまいます。そしてこれを憂いた旧制松本中学校長の「小林有也」らが「松本天守閣保存会」を設立し、明治36年(1903年)から大修理を行いました。
この過程において小林有也らは寄金を募り、修理、保存に関しては自ら腹案を持って工事現場へと通い、積極的に活動をします。この時の大修理は日露戦争の影響で一時的に中断しますが、10年後の大正2年(1913年)、小林有也が亡くなる10ヵ月前に完了しました。
松本城の天守は今も国宝に指定され、松本の地のシンボルとして多くの人々に愛され続けています。かつてこの城の天守を全力で守り抜いた市川量造や小林有也たちの熱い想いが、今も私達にこの城の姿を伝えてくれているのです。
今回ご紹介した長野県松本市の旅行スポット
名称:松本城
住所:長野県松本市丸の内4-1
開館時間:8:30~17:00(夏期は8:00~18:00、入場は30分前まで)
天守観覧料:大人610円 小・中学生300円(松本市立博物館と共通券)
アクセス:JR「松本駅」から徒歩約15分。バスはタウンスニーカー北コース「松本城・市役所前」徒歩すぐ
駐車場:専用駐車場あり(有料)
参考リンク:松本城公式サイト
あらき 獏(ばく)
情報誌の編集者を経て、現在は文化、歴史系フリーライター。歴史を側面から探ることで、歴史の謎解きを楽しんでいます。
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