戦国屈指の合戦上手!武田信玄ゆかりの古戦場を巡る旅5選
「風林火山」を旗に用いた甲斐の虎「武田信玄」。若かりし頃は合戦での敗北もあったものの、その失敗を糧に、名だたる大名たちとの戦いで冴え渡る戦術と外交力を駆使し、激動の戦国時代を勝ち抜いてきた人物です。今回はそんな武田信玄が合戦を繰り広げた、ゆかりの古戦場をご紹介していきます。
【1】上田原の戦い(上田古戦場公園)
1548年2月、信濃全域の制圧に乗り出した武田晴信(後の信玄)は、北信濃の雄・村上義清の攻略を開始。上田原の戦いでは千曲川の北岸で激しい合戦が行われました。信濃の統一を目論む晴信は、諏訪氏などの大名との合戦において連戦連勝を重ね、その勢いで北信濃の攻略に赴いていました。
武田晴信はおよそ5,000の軍勢で侵攻を開始。対する村上義清は産川まで南下し武田軍と対陣。合戦当初は武田軍の先鋒・板垣信方が村上軍の先鋒を打ち破るなど、合戦を優勢に進めていたものの、村上軍は板垣信方が勝ちに奢った隙を見逃せずに猛攻し、板垣信方はそれに抗しきれずに討ち死。そして村上義清はそのまま武田軍の本陣へと突撃し、重臣である甘利虎泰などの家臣を失い、武田軍は大敗を喫しました。
敗北した武田軍は態勢を立て直し、その後も20日間その場に踏みとどまったと言われますが、一説には敗北後、すぐに甲斐へと逃げ帰っては、村上軍の追撃を受けて更なる被害を生む可能性があったためとも言われます。現在、上田原の古戦場は公園となっており、近隣には村上家の武将の墓や、武田軍の先鋒であった板垣信方の墓などもあります。
名称:上田古戦場公園
住所:長野県上田市上田下之条330(石碑は近隣の石久摩神社内にあり)
アクセス:徒歩の場合は上田電鉄別所線「上田原駅」から約20分
【2】砥石城攻防戦(砥石城跡)
1550年、北信濃の豪族たちを村上氏から引き離すなどの謀略で、次々と敵を味方に引き入れた武田晴信は、ついに村上義清の本拠地、砥石城を攻略すべく進軍します。これは前回、上田原で苦渋を飲まされた戦いのリベンジとも言える攻防戦でした。
砥石城を包囲した武田軍は城への総攻撃を命じたものの、小城でありながらも周囲を断崖絶壁に囲まれた砥石城はその猛攻に耐え、武田軍の将である横田高松は戦死してしまいます。また、支城である葛尾城から村上義清の本隊が援軍に駆けつけ、武田軍はここでも撤退を余儀なくされてしまいます。村上義清は撤退する武田軍に激しい追撃を行い、武田軍は1,000人以上の兵士を失う大敗であったと言います。
この戦いでも負けてしまった武田晴信ですが、北信濃の制圧を諦めてはおらず、信濃の豪族であった真田幸隆に砥石城の調略を行わせ、砥石城を手に入れる事になります。その後村上義清は越後の長尾家へと逃れ、武田晴信の悲願であった信濃全域を手中に収める事になりました。現在、砥石城の跡地には村上義清の碑が立っています。標高789メートルという高地が故に、砥石城跡から望む景色は雄大そのものです。
名称:砥石城跡
住所:長野県上田市住吉
アクセス:JR線「上田駅」から車で約20分
駐車場:無料駐車場あり
【3】川中島の戦い(八幡原史跡公園)
川中島と言えば1561年に武田信玄と上杉謙信が戦った場所です。特に有名な第4次川中島合戦では、上杉軍約13,000が善光寺を経由して妻女山に布陣し、武田軍の出方を伺います。そして武田軍は約20,000の軍勢を引き連れて茶臼山に布陣。武田信玄は重臣の馬場信春や山本勘助らの献策を受けて、軍を動かすことを決定します。この時の献策は武田軍を2つに分け、片方を上杉政虎が布陣する妻女山の後方から夜襲させ、慌てて山を降りてきた上杉軍を武田軍本体が挟撃するという内容でした。
しかし、馬場信春などが率いる別働隊、約13,000が妻女山の上杉軍を襲撃した際、そこにはもう上杉軍の姿はありませんでした。上杉政虎は海津城から立ち上る炊煙の量の多さから武田軍の動き出しを察知、夜陰に紛れて密かに山を降りて八幡原に布陣していました。
深い霧が晴れた早朝、上杉軍は猛将・柿崎景家を先陣に、車懸りの陣で武田軍に猛攻を開始。武田軍は鶴翼の陣で応戦するものの、信玄の弟である武田信繁や両角虎定、軍師・山本勘助など多数の将が討ち死してしまいます。また、この乱戦の最中、上杉政虎が単騎で武田軍の本陣へ突っ込み、武田信玄の軍配に三度斬りつけたという逸話はあまりにも有名です。
現在、武田信玄と上杉謙信の一騎打ちの様子を描いた銅像が川中島の公園に設置されており、当時の模様を彷彿とさせてくれます。また、近辺には山本勘助の墓などもあり、武田信玄の歴史を語る上でも重要な古戦場となっています。
名称:川中島古戦場(八幡原史跡公園)
住所:長野県長野市小島田町1384-1
アクセス:上信越自動車道「長野IC」から車で約5分
駐車場:駐車場あり(約150台分)
【4】三増峠の戦い(三増合戦場碑)
"Mimase-kosenjyo" by 馬場民部 - 自己撮影. Licensed under パブリック・ドメイン via ウィキメディア・コモンズ.
1569年、武田軍は北条家の小田原城を攻囲します。しかし城下に火をかけるだけに留まり、その後は甲斐への帰陣を開始。そして帰陣中であった武田軍を北条氏照・氏邦軍が急襲したことで起きた合戦が「三増峠の戦い」です。北条氏照・氏邦軍は本体が到着する前に武田軍への奇襲を敢行、しかし信玄も奇襲攻撃を察知し、部隊を3隊に分ける作戦で迎撃します。
合戦当初は北条綱成率いる部隊が武田軍の2将を打ち取るなど、目覚しい功績を挙げて優勢に合戦を進めたものの、山県昌景率いる奇襲部隊の攻撃で戦況は次第に武田軍優勢へと傾きます。北条軍は予備隊を投入しようとしたものの、武田軍の別働隊によって動けず、結果敵に北条軍本体は大敗を喫して退却するに至りました。現在、三増峠の古戦場として石碑が建てられている場所は広大な大地になっていて、「首塚」や「同塚」などが残されています。
名称:三増合戦場碑
住所:神奈川県愛甲郡愛川町三増1182-3
アクセス:圏央道「圏央厚木IC」から車で約20分
【5】三方ヶ原の戦い(三方ヶ原古戦場跡)
"Mikatahara Battlefield" by 立花左近 - 投稿者自身による作品. Licensed under CC 表示-継承 3.0 via ウィキメディア・コモンズ.
三方ヶ原の戦いは1573年に武田軍と徳川・織田の連合軍が激戦を繰り広げた合戦です。武田信玄が西上する途上に行われた戦いであり、徳川家康が大敗を喫した合戦としても有名です。信玄は二俣城を攻略した後に徳川家康の本拠である浜松城の前を素通りして通過。これをみた徳川家康は家臣が止めるのも聞かずに浜松城から出撃し、三方ヶ原で武田軍の背後を攻撃しようとします。
しかしこの時、武田信玄はすぐさま魚鱗の陣で布陣し、追ってきた徳川軍に対して猛攻を加えます。そして徳川軍は多数の将兵を失い、大敗するという結果に至るのでした。三方ヶ原の戦場には現在、石碑が建てられており、当時の戦の様子を静かに伝えています。
名称:三方ヶ原古戦場跡
住所:静岡県浜松市北区根洗町784(三方原墓園内に石碑)
アクセス:東名高速道路「浜松西IC」から車で約10分
廉
歴史が好きで(中国史、日本の戦国時代)、旅を通して歴史の面白さを伝えていければと思います。