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大阪に残る豊臣家の歴史と痕跡を巡る、大阪城の域内と玉造稲荷神社を訪ねる旅

記事公開日:2016/11/28

広大な大阪城域には、桜門前に「豊國神社」、そして三の丸には「玉造稲荷神社」など、豊臣秀吉や秀頼ゆかりの神社があります。農民から関白にまで上り詰め、立身出世の代表として親しまれた豊臣秀吉でしたが、この地に再び祀られたのは明治時代に入ってからでした。今回は改めて大阪城の域内と玉造稲荷神社を訪ね、豊臣家の痕跡を探す旅へとご案内します。

大阪城内の豊國神社

※写真は豊臣秀吉、秀頼、秀長を祀る、大阪城内の「豊國(ほうこく)神社」

 

一度は神として祀られた豊臣秀吉だったが、江戸時代は不遇を辿る

 

慶長3年(1598年)8月18日、豊臣秀吉は秀頼の後見を徳川家康に託して死去。そして秀吉の遺体は遺言によって、京都・阿弥陀ケ峰の豊国廟に埋葬されたと言います。そしてその翌年には、朝廷から豊国大明神の神号を給り、麓の京都「豊国(とよくに)神社」の神として祀られ、毎年8月の年忌には「豊国祭」が執り行われました。

 

しかし慶長20年(1615年)、大坂の陣で豊臣家が滅亡すると、徳川家康は秀吉の神号を剥奪し、さらに神社の破却を命じました。この時、秀吉の妻・高台院(おね)の嘆願によって社殿は残されましたが、江戸時代を通じて再興されることはなく、朽ちるに任せて放置されたと言います。

 

豊國神社の境内

 

江戸幕府の終焉とともに、豊臣家は再び力を取り戻す

 

それから時は流れて明治元年(1868年)、大阪に行幸した明治天皇は、「皇威を海外に宣べ、数百年経ってもなお寒心させる、国家に大勲功ある今古に超越するもの」と、豊臣秀吉を尊王の功臣と称し、この大阪の地に豊国神社の再興を布告します。

 

そして明治12年には大阪別社「豊國神社」が創建され、現在は大阪城内に遷座。京都本社の方は明治13年(1880年)に現在の場所に遷座し、大坂夏の陣から250年の時を経て、ようやく豊臣家は力を取り戻しました。

 

豊國神社内の豊臣秀吉像

 

明治時代に入ると、豊国廟に残されていた遺骨が発見される

 

時は移って明治30年(1897年)4月、秀吉の300年忌に合わせて京都の墓所、「豊国廟」再建の起工式が行われました。その工事の際には地下から大きな甕が見つかり、中から手を組んで西向きに胡座をかいた遺骸が発見されました。この時は盗掘されていて副葬品なども無く、木棺の痕跡と思われる木片も発見されますが、遺骸が納められていた甕自体は粗末なものでした。

 

そしてこの調査の時には遺骸も砕けてしまい、結局骨片を集めて絹に包んだ桐箱を銅の櫃に納め、石櫃に入れて再び埋葬されたとされ、今は訪れる人が少ないこの地にひっそりと眠っていると言われています。

 

豊臣秀頼ゆかりの玉造稲荷神社も訪ねてみる

 

玉造稲荷神社

 

由緒によると、天正4年の兵乱で焼失後、慶長8年に秀頼公によって社殿等が再建され、大阪城の鎮守神として崇敬されたという「玉造稲荷神社」。境内には秀頼の像が大阪城の天守を望むように建立されています。また、淀殿と結ぶ胞衣(よな)が鎮まる「豊臣秀頼公胞衣塚(よなづか)大明神」もあり、慶長8年(1603年)に秀頼が寄進した鳥居の一部も残されています。

 

玉造稲荷神社内の豊臣秀頼像

※写真は豊臣秀頼像

 

この玉造稲荷神社の周辺は、前田利家や宇喜多秀家、細川忠興などの有力大名の屋敷が並んだ三の丸地域であり、大坂冬の陣ではその南の城外に「真田丸」が造られた場所でもあります。

 

大阪城山里丸にある自刃の地の推定地

※写真は大阪城山里丸にある自刃の地の推定地。秀頼と淀殿の遺体は発見されていないと言われます

 

淀殿と秀頼の菩提を弔った浅井姉妹

 

浅井三姉妹と言われた「淀殿」、「初」、「お江」はとても仲がよく、妹の初は大坂の陣で徳川との和議に奔走。そしてお江の娘である「千姫」は、落城間近の戦火の中で決死の脱出をし、家康・秀忠に秀頼と淀殿の助命を嘆願します。

 

また、元和2年(1616年)5月、徳川2代将軍・秀忠の正室であった「お江(崇源院)」は、姉の淀殿と千姫の夫であった秀頼の死を悼み、京都東山の「養源院」でその菩提を弔います。

 

この東山の養源院は、元々淀殿が実家の浅井家のために文禄3年(1594年)に創建した菩提寺。焼失後はお江が元和7年(1621年)に伏見城の遺構を移築して再建し、それ以降は徳川家の菩提寺とされ、徳川家代々の位牌が祀られています。

 

豊臣家の系譜

※信長の妹、「市」の娘であった「淀」「初」「江」の三姉妹

 

昭和に入り、大阪城三の丸で新たな遺骸が発掘される

 

昭和55年(1980年)、大阪城三の丸跡の学術調査の際には、成人男子のものと思われる頭蓋骨が、大阪城西側の京橋口を囲む廓跡と推定される場所から発見されました。この時は丁寧に埋葬された形跡があり、穴の底面には中身入りの貝が敷き詰められ、周辺からは織部焼や唐津焼の皿、墓標と思われる石柱も発見されました。

 

発見された頭骨の調査では、生え揃った歯とその歯並び、手入れの状態から、育ちが良い20~25歳くらいの若者と考えられました。また、近くには副葬された大きい馬の骨も発掘されています。

 

伝えられる豊臣秀頼は体格が良く、大型馬「太平楽」をも乗りこなしていたと言われ、この遺骸が秀頼本人であるという可能性も言われています。しかし疑問とされる点もまだ残っており、現在のところは確定していません。

 

ちなみにその後、京都の「清涼寺」では秀頼の首塚が築かれています。由緒によると「秀頼が没して368年ぶりの昭和58年(1983年)に、秀頼公が再興に尽力した由縁を持つ清涼寺に首塚が造られ、ここに首が納められました」とあります。

 

山里丸の「淀君ならびに殉死者32名忠霊塔」の碑

※写真は山里丸の「淀君ならびに殉死者32名忠霊塔」の碑。真田信繁の息子「真田大助」や、乳母「大蔵卿の局」の名も記されています。

 

誰もが知る天下人、「豊臣秀吉」と大坂の陣で散った「秀頼」の父子。この歴史を違った視点で眺めてみると、まだまだ知らないことが多いと気付かされます。大阪城域内とその周辺を訪れてみると、当時の歴史の痕跡がまだまだ埋もれていました。

 

今回ご紹介した大阪市中央区の旅

 

名称:豊國神社(大阪城内)
住所:大阪市中央区大阪城2-1
アクセス:JR森ノ宮駅下車大阪城公園内桜門前徒歩約20分
参考サイト:大阪城豊國神社公式サイト

 

名称:玉造稲荷神社
住所:大阪市中央区玉造2丁目3番8号
アクセス:JR玉造駅下車、北西方向へ徒歩約10分
参考サイト:玉造稲荷神社公式サイト

 

播磨翁播磨翁

兵庫県の播磨国に在住。ワクワク出来る歴史旅をご紹介できれば幸いです。個人的には謎がありそうなディープな歴史が好きです。

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