神武天皇の宮・橿原神宮、神武東征の伝承を感じながら巡る奈良の旅
大和三山の1つ、畝傍山麓に広大な神域を持つ橿原神宮。この宮の社地は神武天皇の畝傍橿原宮の地とされています。今回はこの地で神武天皇の伝承に触れ、歴史ロマンに浸る奈良旅をご紹介していきます。
※写真は橿原神宮外拝殿
明治23年、畝傍山の麓に橿原神宮が興され、神武天皇の神霊が祀られた
奈良盆地の南域、橿原市の畝傍山(うねびやま)東南の麓に、初代の神武天皇を祀る「橿原神宮(かしはらじんぐう)」は鎮座しています。明治23年(1890年)、国は神武天皇の畝傍橿原宮があったとされる畝傍山の麓に橿原神宮を興し、それまで桜井の多武峰で奉斎されていた神武天皇の神霊を遷しました。
日向の高千穂宮から、この国を治めるために東へと向かった神日本磐余彦尊(神武天皇)は、6年の時を費やして、熊野から吉野、宇陀を経て大和入りを果たします。そして、畝傍山の麓に宮処を置く事になるのです。日本書紀の中では、「辛酉の歳、神武天皇元年、神日本磐余彦尊は畝傍山の麓、橿原宮で践祚し、始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)を称した。」と記されています。
現代の歴史学では、神武天皇の存在を含めて、東征の説話は内容が神話的であり、史実とは考えにくいとする一方で、記紀(日本書紀と古事記の総称)における神武東征が、何らかの史実を投影しているという説については、根強い支持があります。
※写真は橿原神宮の大参道
澄んだ空気が流れる橿原神宮の神域には、壮厳な神殿群が佇む
一の鳥居からは大参道が伸びています。神橋と二の鳥居を経て右に折れ、南神門を入っていくと、畝傍山を背景に玉砂利の斎庭が広がり、正面には入母屋の外拝殿が壮厳な姿を見せます。通常、一般参拝はここで行いますが、外拝殿の内には回廊に囲まれた1000坪ほどの外院斎庭が、そして正面には左右に回廊を伸ばす内拝殿があります。ここは祭典や特別参拝での拝所となっていて、内拝殿の屋根越しには幣殿の千木が黄金に輝き、本殿は幣殿の後方に鎮座しています。
橿原神宮は明治時代に造られた新しい宮です。しかし、神域でこの神々しい空気を感じるのはやはり、この地が建国の原初、畝傍橿原宮ゆかりの地であるからなのかもしれません。
※写真は内拝殿。橿原神宮の広大な神域には、澄んだ空気が満ちています
※写真は外拝殿の後方にそびえる畝傍山。山の向こうには神武天皇の陵墓とされる「畝傍山東北陵」があります
橿原神宮の門前は久米町。神武天皇が大久米命に与えたとされる伝承の地
参拝を終えて近鉄橿原神宮前駅へと歩きます。駅へ向かう参道の右手は久米町という場所です。ここは古えの大和国高市郡久米邑であり、神武二年の天皇による論功行賞において、大久米命に与えたとされる地です。町の中央の「久米御県神社」には、久米氏が祖神・大久米命などを祀ったとされる式内社があり、社前には「来目邑伝承地」の碑が建ちます。また、隣接するのは久米仙人の説話を残す古刹の「久米寺」。久米氏の氏神と氏寺が久米の町中に並んでいる場所となっています。
※写真は神域の南、静かな水面に畝傍山を映す久米の深田池。遊歩桟道が廻り、畔には桜木が植わります
橿原の地に残る久米氏族の痕跡。神武天皇の存在や、東征説話の史実性を感じさせる
神武東征では、神武天皇の側(そば)で神武天皇を能く守護したとされる、久米氏の祖「大久米命(おおくめのみこと)」の存在が挙げられます。久米氏は古代日本における軍事氏族であり、神話では邇邇芸命の降臨を先導した氏族ともされます。そして大久米命配下は神武東征において、皇軍の主力であったともされます。大和王権の創成期において、久米氏が王権の軍事力として貢献したのは間違いないだろうと思います。
久米氏族は隼人系の海人とも言われ、大久米命は黥利目(周りに入れ墨を施した目)であったとされます。魏志倭人伝の中では、倭人は水人であり、黥面文身(身体に入れ墨を施す)であると記され、入墨は海人の習俗ともされます。そして、のちの隼人が天皇や王子の近習とされ、宮中の守護にあたる流れとなるのも、この久米氏にまつわることなのでしょうか。橿原の地に今も残る久米氏族の痕跡は、神武天皇の東征説話や畝傍橿原宮の伝承の史実性を感じさせ、古代の日本のロマンを感じさせます。
今回ご紹介した奈良旅のスポット
名称:橿原神宮(かしはらじんぐう)
住所:奈良県橿原市久米町934
開門時間:日の出、日没の間
アクセス:近鉄橿原線「橿原神宮前駅」徒歩10分
駐車場:社頭に有り(有料)
参考情報:橿原神宮の公式サイト
あらき 獏(ばく)
情報誌の編集者を経て、現在は文化、歴史系フリーライター。歴史を側面から探ることで、歴史の謎解きを楽しんでいます。
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