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九州が天下に誇る熊本城、加藤清正が心血を注いだ名城の歴史ドラマを楽しむ旅

記事公開日:2015/12/01

加藤清正が築き、日本三名城の1つに数えられている「熊本城」。清正流と呼ばれる優美で堅牢な高石垣と大小天守、そして49もの櫓群の構成など、一大名の城としては天下一との評価もあるほどの城です。今回は熊本城の400年を歴史ドラマの視点で楽しむ旅をご紹介していきます。

九州が天下に誇る熊本城、加藤清正が心血を注いだ名城の歴史ドラマを楽しむ旅


大小天守と本丸御殿が復元され、熊本城は今も美しく、力強い姿を見せる

 

天正16年(1588年)、肥後半国の領主となった加藤清正は、熊本の中枢である広大な茶臼山丘陵に城郭を築きはじめます。加藤清正と言えば豊臣秀吉子飼いの将であり、多くの武功を立て、文禄、慶長の役では主力として戦った名将でもあります。秀吉が没した後の関ヶ原の戦いでは東軍につき、行賞において肥後一国52万石の太守とされ、慶長11年(1607年)に当時の最先端技術と最大の労力を投じた熊本城を完成させます。

 

しかし、清正の没後に加藤家は改易されてしまい、後に細川氏が肥後へと入国する事になります。そして細川家のもとで熊本城は明治時代の初めまで大半の建物を残しますが、明治10年の西南戦争における熊本城籠城戦で、天守や本丸御殿などの主要な建物を焼失してしまいます。しかしながら、清正が築いた高石垣はそのまま原形をとどめ、宇土櫓などが現存していることで、熊本城は国の特別史跡に指定されます。そして現在は大小天守と本丸御殿、櫓群が復元されています。

 

写真は復元された大小天守

※写真は復元された大小天守。連結式望楼型で大天守は3重6階、一の天守とも呼ばれます。二の天守、小天守は3重4階

 

写真は三の天守とも呼ばれる宇土櫓

※写真は三の天守とも呼ばれる宇土櫓。関ヶ原の戦いで西軍について滅亡した、小西行長の宇土城の天守を移築したとされます

 

西南戦争の舞台となった熊本城。猛攻に耐えて難攻不落を実証する

 

熊本城は本来、仮想敵であった薩摩への備えとして築かれた城でした。西郷隆盛を盟主にした明治士族の反乱、西南戦争においては、熊本城は政府軍の重要拠点であり、奇しくも薩摩軍の攻略目標となります。明治10年(1877年)に鹿児島から北上を始めた薩摩軍に対し、熊本鎮台司令官の谷干城は熊本城への籠城を決意します。

 

熊本城に籠る歩兵約4,000に対し、薩摩軍約1,4000は四方からの総攻撃を開始。3日間の激しい戦いの末、薩摩軍は熊本城を落とせずに田原坂へと転進します。この籠城戦の際に原因不明の出火によって大小天守、本丸御殿などの建物を焼失させるのですが、薩摩軍の攻撃に耐えた熊本城は、築城から270年の時を経てその防御力を証明、西郷隆盛は「官軍に負けたのではなく清正公に負けた」と言ったと伝えられます。

 

写真は清正流の石垣

※写真は清正流の石垣。優美にして堅牢な石垣は熊本城最大の特徴。石垣の始めは緩やかな勾配だが、上部に行くにしたがって垂直に近くなる形状。ふんだんに配された枡形、横矢といった仕掛けとともに熊本城の防御の要

 

加藤清正の豊臣家への忠義を象徴する、本丸御殿の「昭君之間」

 

本丸御殿の最深部には、中国の故事に登場する王昭君の絵画がある、「昭君之間(しょうくんのま)」と呼ばれる格式の高い部屋があります。この部屋には鶯張りの廊下や外へと通じる隠し通路があったとされ、万が一豊臣家に有事があった際には、秀吉の遺児、豊臣秀頼を迎え入れるために造られたとも言われます。

 

清正と秀吉とは血縁関係にあり、清正は9歳の頃から秀吉に仕えています。秀吉の死後は慶長16年(1611年)に二条城で秀頼と徳川家康を会見させるなど、豊臣家に対する清正の思いは強く、徳川家康に恭順しながらも、秀吉への恩を忘れない清正の忠義の心は強かったと言われています。

 

写真は本丸御殿に復元された昭君之間

※写真は本丸御殿に復元された昭君之間

 

清正公(せいしょこ)さんと呼ばれ、今なお熊本市民に慕われる加藤清正の善政

 

天正16年(1588年)に加藤清正が肥後に入ったのは、前年に佐々成政が肥後国人一揆によって、統治に失敗した後を受けての流れでした。肥後は国衆がひしめく難治の国とされ、戦乱によって国自体も疲弊していました。この状況に対して清正はすぐに治山治水、新田開発などを進め、さらには南蛮貿易にも乗り出し、積極的な領地経営を推し進めます。やがて肥後の国は富み、清正は領民から神のように慕われるようになっていきます。そして400年を経た現在でも、熊本では善政の事跡を「せいしょこさんのさしたこつ(清正公のなされたこと)」といい伝え、清正を称えているのです。


※本記事公開後の2016年4月16日、熊本県内で発生した大地震の影響で、残念ながら熊本城に関しても大きな被害が出ております。地震の影響で多大な苦労を強いられている現地の皆さまをにお見舞い申し上げるとともに、今後の復興、復旧が叶う事をお祈り申し上げます。

 

今回ご紹介した歴史スポット

 

名称:熊本城
住所:熊本市中央区古京町1-1
開園時間:8:30~18:00(12月~2月は17:00まで)
入場料 大人:500円(天守閣入場も含む)
アクセス:熊本市電「熊本交通センター」から徒歩約5分。「熊本城、市役所前」から徒歩約3分。または熊本城周遊バス「しろめぐりん」が便利
駐車場:城内各所に駐車場あり(有料)
参考情報:熊本城の公式サイト

 

あらき 獏(ばく)あらき 獏(ばく)

情報誌の編集者を経て、現在は文化、歴史系フリーライター。歴史を側面から探ることで、歴史の謎解きを楽しんでいます。

 

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