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戦国時代の築城エキスパート!藤堂高虎が手掛けた名城5選

記事公開日:2015/08/31

何度も主君を変えたことで有名な一方、「築城の名人」としても知られ、その技術力を武器に激動の世を生き抜いた人物が戦国武将の「藤堂高虎」。今回は藤堂高虎が手掛けた幾多の城の中から、「日本の名城100選」にも選ばれている5つの城をまとめてご紹介していきます。

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今年亡くなった作家・火坂雅志氏の人気小説、「虎の城」で注目度が高まった武将・藤堂高虎。当サイトで以前にご紹介した「この主人公の大河ドラマが見たい!主人公ランキング」でもランクインした、知る人ぞ知る戦国武将です。

 

浅井家、豊臣家、徳川家と生涯の間に何度も主君を変えたことは有名ですが、一方で「築城の名人」としても知られ、その技術力を武器に激動の世を生き抜いた人物とも言えるでしょう。今回はそんな藤堂高虎が手掛けた城の中から、「日本の名城100選」にも選ばれている5つの城をまとめてご紹介していきます。

 

【1】江戸城

 

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画像出典元:Wikipedia 

1603年、時の将軍・徳川家康が下した「天下普請」の命令により、江戸城の改築および道路や河川などのインフラ整備が始まりました。当時、質素な造りであったと言われる江戸城は、将軍家の居城として、増築や周辺設備の整備など、大がかりな工事が行われました。

 

藤堂高虎はこのうち、城の外郭石壁と石垣部分を担当したと言われており、これは高虎が石垣を高く積み上げる技術と、堀の設計に長けていたためとも言われています。さらに、天守台や石塁の修築にも尽力したとされています。

 

この時の改築の功績を家康は高く評価し、高虎は外様大名でありながら別格の譜代大名格の称号を得ます。また、伊賀1国および伊勢8郡22万石を与えられて津藩主となっています。現在は、東京都千代田区にある本丸、二ノ丸、そして三ノ丸の跡地が皇居東御苑として一般公開されています。

 

【2】二条城

 

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画像出典元:Wikipedia 

家康亡き後、高虎は2代将軍の徳川秀忠に仕えました。1619年、秀忠は娘・和子の後水尾天皇への入内に先駆けて、京都にある二条城の改修を思い立ち、高虎にその基本設計を任せています。

 

その際、高虎は設計図を2枚用意し、そのどちらか一方を秀忠に選ばせることによって、設計したのはあくまでも秀忠であるという事を世に示し、秀忠の顔を立てたとも言われています。

 

幾度も主君を変えてきた高虎が、最終的に徳川家でも信頼を勝ち得たのは、こういった細やかな気遣いができる武将だったからなのかもしれません。

 

家康の将軍宣下および、最後の将軍・徳川慶喜の大政奉還と、江戸幕府の始まりと終わりの場所になった京都・二条城。その歴史的価値から、1994年にはユネスコの世界遺産に登録されました。

 

【3】伊賀上野城

 

伊賀上野城

 

三重県伊賀市にある伊賀上野城は、平安時代に平清盛が建立した平楽寺の跡地に、秀吉の家臣・筒井定次が築城したと伝えられる城です。徳川家康が政権を握ると、大坂城を押さえておくための拠点として、大規模な改修が必要となり、藤堂高虎に白羽の矢が立てられます。

 

1611年、高虎は西側に本丸を拡張。南側には二ノ丸を建設し、高さ30mもの高石垣をめぐらせました。さらに、外郭には長さ約40mという巨大な大手門や御殿などを築きます。

 

しかし、改修の目玉の1つであった五層の天守閣は、完成間近の1612年に暴風で倒壊。200人近くの死者、負傷者を出す大惨事になったとも言われています。その後、豊臣家が滅亡し、城自体の必要性が薄くなったため、天守閣は再建されませんでした。現在の伊賀上野城の天守閣は1935年に復興された模擬天守で、高虎の黒漆塗の兜などが所蔵されています。

 

【4】宇和島城

 

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画像出典元:Wikipedia 

 

愛媛県宇和島市にある宇和島城は、藤堂高虎の築城技術が結集された城と言っても過言ではないでしょう。1596年、高虎は山頂の本丸を中心として中腹に二ノ丸を配し、東側には海水を引き入れて水堀を建設しました。この宇和島城は西側半分が海に面している「水城」としても有名です。

 

宇和島城の最大の特徴はその外郭。一見、四角形のように見える城郭は実は五角形で、そのために一角が敵には死角になります。この死角を利用して攻撃したり、反対に攻撃を避けたり、ここから物資を搬入するなど、作戦上、非常に有効に機能したと考えられています。

 

さらに、いざという時に城から脱出するために、原生林や海岸、隠し水軍基地へと通じる抜け道も整備されていたと言われています。

 

高虎が考案したこの卓越したからくりの設計は、後の城主たちにも受け継がれました。その後、堀は埋め立てられてしまいましたが、天守や上り立ち門、石垣は現存しており、当時の面影を残しています。

 

【5】篠山城

 

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画像出典元:Wikipedia 

 

徳川家康が大坂の豊臣家を抑えるために1609年、現在の兵庫県篠山市にあたる篠山盆地に築城したのが篠山城です。当時の天下普請により15の国の大名たちが集められ、約6カ月というスピードで完成したと言われています。

 

高虎は縄張を担当し、得意とする堀の設計で内堀・外堀を築きました。外堀は1辺を約400mの正方形とし、内堀内の二ノ丸を囲む土塀は死角がないように見せるなど、高虎の工夫が随所に見受けられる造りでした。

 

尚、1878年に城郭は取り壊されてしまいましたが、大書院は残りました。その大書院も一度は焼失しますが、2000年に復元され、現在は二条城に匹敵する大規模な書院となっています。

ふじわら りえ

子育て主婦兼ライター。思わず誰かに話したくなる、そんな歴史旅の記事をお届けできるようにしたいと思っています。

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