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白亜の城、唐津城に残る南蛮大砲の秘話。風光明媚な景観の奥にある波乱の歴史に触れる旅

記事公開日:2016/04/01

佐賀県唐津市、松浦川の河口に位置している「唐津城」。この城は唐津湾に突出した満島の山上に本丸が築かれ、その麓に二の丸、三の丸が配されている連郭式の平山城です。今回は風光明媚な唐津の地を訪れ、海上交通の要衝であったが故に翻弄され続けた城の歴史と、残された南蛮大砲の秘話に触れる旅へとご案内します。

風光明媚な佇まいを見せる唐津城

※写真は松浦川の河口に浮かび、風光明媚な佇まいを見せる唐津城

 

水面に映る白壁の天守。美しい絵はがきのような景観の中に佇む唐津城

 

「唐津城」は文禄4年(1595年)、唐津に封ぜられた豊臣秀吉の側近、寺沢広高が名護屋城の資材を用いて築城を行い、慶長13年(1608年)に完成した城。そして寺沢氏が改易されて以降は、譜代大名5家が藩主として入れ替わります。明治時代に入って廃城となった後には本丸が公園となり、昭和41年(1966年)に5層5階の模擬天守が築かれ、門、そして櫓も再建されました。唐津湾に面し、松浦川の河口に浮かぶ満島の山上に建つ白亜のこの天守、対岸には日本三大松原とされる「青松白砂の虹の松原(特別名勝)が広がり、風光明媚な景観を私たちに見せてくれます。

 

天守からの眺望

※写真は天守からの眺望。右が松浦川で左が唐津湾。松浦川の河口を隔てた対岸には虹の松原が弧を描き、その奥には領巾振山(鏡山)が横たわります

 

旧主の滅亡と藩主の自殺、そして藩主家5家の交代。歴史に翻弄され続けた城

 

唐津(からつ)という名が示す通り、この地は古代より大陸との海上交通の要衝でした。豊臣秀吉の文禄、慶長の役では拠点となり、名護屋城が築かれた重要な地でもありました。この地には遠い昔から水軍、松浦党の領袖、波多(はた)氏があり、戦国期には壱岐へと進出するなどの全盛を誇っていました。しかし、豊臣秀吉が九州を平定した後に波多氏が秀吉の不興を買ってしまい、知行を没収されて滅亡します。

 

そして秀吉の側近であった寺沢広高は、文禄の役で名護屋城の普請、後方兵站を務めて功績を挙げ、秀吉の信頼を得て文禄2年(1593年)にこの地を与えられ、長崎奉行にも任じられました。また、秀吉の死後には関ヶ原の戦いで東軍に与して戦功を挙げ、天草領を加増されて12万石を有する大名となりました。

 

橋の上から望む唐津城

 

しかし、寺沢広高の死後に跡を継いだ2代、寺沢堅高の時代には「島原の乱」が勃発し、乱は寺沢領の天草にも広がります。禁教令以後、寺沢氏は天草でキリシタンの弾圧を行なっていて、老中、松平信綱を総大将とする幕府軍十数万の出動によって乱自体は鎮圧されましたが、堅高はその責を咎められて天草領を没収されます。その後の堅高は心労によって自殺してしまい、嗣子がいなかった寺沢氏は改易となりました。それ以降の唐津藩は大久保氏、大給松平氏、土井氏、水野氏、小笠原氏と譜代大名5家がめまぐるしく入れ替わり、最後の藩主、小笠原氏の時代に明治維新を迎えています。

 

5層5階の模擬天守

※写真は唐津城の5層5階の模擬天守

 

唐津城に展示される「南蛮大砲」の秘話。唐津湾の異国船焼き討ち騒動

 

唐津城の天守閣の1階には、「南蛮大砲」と銘打った古い大砲が展示されていますが、実はこの大砲には不思議な言い伝えがあると言います。江戸時代初期の寛永12年(1635年)、中国、オランダなどの外国船の入港は長崎のみとされ、我が国は鎖国体制に入りました。そんな中の正保元年(1644年)6月、突如として唐津湾に正体不明の異国船が現れたのです。

 

唐津湾の中央に浮かぶ高島。この高島は高さ170mほどの台形の小島で、その平らな頂きには唐津藩の遠見番所がありました。その日の朝、この遠見番所の役人たちは眼前に巨大な船影を見ます。その黒船は高島と筑前領の姫島の間に停泊しており、長さは五十間(90m)ほどもある巨艦で、数十もの砲門が並んでいました。

 

この異国船来航の報せはすぐに城へと届けられ、驚いた藩主の寺沢堅高は直ちに陣触れを出し、海岸線に数千もの軍勢を配置して陣を敷きます。同時に賊船来航の報せは近隣の福岡藩や平戸藩にも送られ、福岡藩も海岸線に兵を布陣する事になります。翌日、唐津藩は数百艘もの軍船を漕ぎ出し、この異国船を十重二十重にも取り巻きます。さらに翌々日には黒田藩の軍船も加わり、柴草を積んだ船に火をかけて異国船を火攻めにし、遂には意志が通じないままに砲撃を加え、この異国船を沈没させてしまいました。

 

現在、唐津城の天守閣1階に展示されている「南蛮大砲」は、唐津藩によって引き揚げられたその異国船の大砲であると伝わります。この逸話は唐津城下に残された古文書にあるものなのですが、不思議なことに唐津藩、福岡藩の公文書にはこの事が記されていません。唯一、福岡藩の支藩、秋月藩の記録にそれらしき記述があるのみとなっています。これは両藩の公式の記録から消されてしまったものなのでしょうか?何らかの作為が感じられる逸話となっています。

 

また、堅高は犠牲となった異国船の乗組員の怨念を鎮めるために、寺沢氏の菩提寺である近松寺の住僧をして、高島沖で三日三晩にわたって霊の供養を行なっています。それから3年後、堅高は心労によって自殺しています。この唐津城は海上交通の要衝であったが故に、波乱の歴史に翻弄されてきた城。この風光明媚な土地で、秀麗な城の奥にある秘話に思いを馳せてみれば、歴史ロマンはどんどんと膨らんでいきます。まだこの地を訪れた事がない方は、ぜひ一度足を伸ばしてみて欲しいと思います。

 

唐津湾の中央に浮かぶ高島を望む

※写真は唐津湾の中央に浮かぶ高島を望む(天守より)

 

今回ご紹介した佐賀・唐津旅のスポット

 

名称:唐津城
住所:佐賀県唐津市東城内8-1
天守閣観覧料:大人(15才以上)410円、小人200円
本丸へのエレベーター利用料:大人(15才以上)100円、小人50円
開館時間:9:00~17:00
アクセス:JR「唐津駅」から徒歩約20分
駐車場:城内に駐車場あり

 

あらき 獏(ばく)あらき 獏(ばく)

情報誌の編集者を経て、現在は文化、歴史系フリーライター。歴史を側面から探ることで、歴史の謎解きを楽しんでいます。

 

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