長崎・軍艦島、廃墟となった炭坑跡や日本最古の高層アパート群を目にする上陸ツアーへ
廃墟となった高層アパートのコンクリートの瓦礫、赤茶けた鉄筋。ここは時間が止まってしまった無人の島。このモノトーンの異空間はまるで古代遺跡かのように静かに佇んでいます。ここ、軍艦島(端島)は明治時代から昭和にかけて、海底炭鉱によって栄えた島です。
※写真は軍艦島の全景
軍艦島の輝きの日々と儚い時の流れを知る
軍艦島(端島)は長崎港の南西の海上に浮かぶ小さな島です。この島は明治時代から昭和にかけて、海底炭鉱によって栄えました。大正時代には日本最初の鉄筋コンクリート造りの集合住宅が建設され、最盛期であった昭和35年(1960年)には約5,300人もの人々がこの小さな島に住み、東京23区の9倍もの人口密度に達していたと言います。
当時の島内には小学校や中学校、病院なども整備されていて、全ての生活が島内で賄えるようになっていました。しかし、エネルギー源が石炭から石油へと本格移行する時代となり、昭和49年(1974年)に炭坑が閉山。ここに住んでいた住民たちは島を離れていき、軍艦島(端島)は無人島となってしまいました。
現在の軍艦島(端島)は、大正時代から昭和にいたる集合住宅の遺構などが注目され、平成27年(2015年)に世界文化遺産「明治日本の産業革命遺産」の構成地として登録されています。また、近年の廃墟ブームも相まって、人気の観光スポットとなり、軍艦島(端島)の「上陸ツアー」が人気を集めるようになっています。
「軍艦島」という名称の由来は、1921年(大正10年)に当時、三菱重工業長崎造船所で建造中だった戦艦「土佐」に、島の外観が似ていると新聞で紹介された事がきっかけだったと言われます。また、戦時中の昭和20年(1945年)には米軍の潜水艦がこの島を軍艦と間違え、魚雷を撃ちこんだという話もあります。しかしこれについては、軍艦島(端島)に停泊していた石炭運搬船を、米軍の潜水艦が魚雷で攻撃したというのが事実のようです。
エネルギッシュで活気に溢れた日々。当時の軍艦島(端島)の暮らしとは?
島には炭鉱施設や住宅のほか、小学校や中学校、病院、店舗、理髪店、美容院、さらには映画館、パチンコ屋、スナックなどの娯楽施設、そして神社やお寺などもあり、小さな島でありながら完全な都市機能を有していました。この島が炭鉱夫やその家族で賑わっていた時代は、365日、24時間、島に灯りが消えることは無かったと言われます。
そして島には緑が少ないため、住民たちは本土から土を運び込み、アパートの屋上に庭や畑を作って植物を育て、緑を楽しんでいたそうです。そして隣の中ノ島にも広い公園を造り、船で行き来をしていたと言います。この中ノ島には墓地や火葬場も建設されていました。一方で軍艦島(端島)には歴史に翻弄された負の側面もあります。軍艦島(端島)は歴史認識を巡る問題を抱えるなど、人間の営みの中で生じる多くの課題と向き合う場所にもなりました。
もともとの軍艦島(端島)は小さな瀬と岩礁でした。それを埋め立てて3倍の面積の島として護岸堤防で囲い、炭鉱施設や住宅などが建設されています。島の中央部には埋め立て前の岩山なども残されています。
廃墟となった炭坑跡や日本最古の高層アパート群を目にする「軍艦島上陸ツアー」
長い間立ち入りが禁止されていた軍艦島(端島)ですが、平成21年(2009年)に上陸が解禁となりました。ここでは見学通路から廃墟となった竪坑跡や炭坑の建物群、そして大正5年(1916年)に建築された日本最古の7階建て鉄筋コンクリート造りの高層アパートなどを見学する事ができます。上陸に関しては長崎の大波止などから各社の軍艦島上陸ツアーがあり、片道40分ほどの船旅で上陸する事ができるようになっています。
今回ご紹介した長崎の旅行スポット
名称:軍艦島(端島)
住所:長崎港外
軍艦島上陸ツアー:各社予約制。料金は3000円~4000円、所要時間は2時間30分程度
参考リンク:
軍艦島上陸クルーズ http://www.gunkanjima-cruise.jp/
やまさ海運http://www.gunkan-jima.net/
シーマン商会http://www.gunkanjima-tour.jp/
軍艦島コンシェルジュhttp://www.gunkanjima-concierge.com/
あらき 獏(ばく)
情報誌の編集者を経て、現在は文化、歴史系フリーライター。歴史を側面から探ることで、歴史の謎解きを楽しんでいます。
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