戦国時代からの富山城、富山前田家230年の居城となり、富山市民にも愛される城を巡る旅
川と水濠に囲まれ、浮城とも呼ばれた「富山城」。ここは戦国時代に神保氏や佐々成政の城塞となり、江戸時代には富山前田家230年の居城とされた城です。現在の富山城は城址公園として整備されていますが、この城にも様々な武家のストーリーがありました。今回は改めて、富山が誇る名城、富山城を巡る旅へとご案内します。
※写真は水濠に美しい姿を映す富山城
富山市を代表する景観ともされ、地元の人々にも愛される富山城
戦国時代に築かれたと言われる「富山城」。この当時は神通川が東に大きく蛇行しており、富山城はその南岸に築かれ、神通川の流れと水濠に囲まれた城であった事から「浮城」とも呼ばれました。現在の富山城は富山市の中心部にあって「富山城址公園」として整備され、昭和29年(1954年)に建てられた模擬天守は国の登録有形文化財にもなっています。内部には富山の歴史を紹介する「富山市郷土博物館」もあり、園内には美しい庭園が広がっていて、富山市民の憩いの場にもなっています。
※写真は富山城址公園
神保長職、佐々成政から前田氏へ。富山城の歴史ストーリー
富山城は天文12年(1543年)、戦国大名の神保長職が築城したとされます。しかし、永禄3年(1560年)に神保長職が越後の上杉謙信の侵攻によって富山城を追われ、その後の富山城は上杉氏と一向一揆勢の争奪の的となりました。やがて、天正6年(1578年)には神保長職の子、長住が織田信長の後ろ盾を得て富山城へと入城しました。
しかし、そんな神保長住も、天正10年(1582年)に上杉方へ内応した家臣によって失脚。その後は信長の家臣であった佐々成政が城主となりました。そしてその佐々成政も本能寺の変の後には豊臣秀吉と敵対、天正13年(1585年)に秀吉率いる10万の大軍が富山城を囲んで成政は降伏、富山城は破却されました(富山の役)。
その後の越中は前田氏に与えられ、加賀藩の初代藩主、前田利長が富山城の大改修を行い、金沢城から移り住んで隠居城としました。しかし、慶長14年(1609年)には火災によって城の主要部を焼失、利長は高岡城へと移っていきました。
そんな富山城に転機が訪れたのは寛永16年(1639年)の事でした。加賀藩の3代藩主、前田利常が次男の利次に10万石を与えて分家、ここに富山藩が成立しました。前田利次は富山城に入って本格的に城を修復し、城下町も整備、これ以降の富山城は富山前田氏13代の居城となり、明治維新を迎えていきました。
※写真は富山城の模擬天守
富山市の中心部で城址公園として整備された富山城跡
富山城は神通川を北の守りとした梯郭式の平城です。城の周囲には神通川と2重の水濠があり、縄張りは本丸の南に二の丸、東西には出丸が置かれ、さらに三の丸が凹状に囲む堅固な構えとなっています。現在の本丸と西の丸は城址公園として整備されています。
また、昭和29年(1954年)に完成した模擬天守は「富山市郷土博物館」とされていて、ここでは400年にわたる富山城の歴史を模型や映像で紹介、高さ140cmの前田利長の兜などは必見の価値があるものとなっています。富山の顔ともなった模擬天守は平成16年(2004年)に国の登録有形文化財に指定され、天守と水濠のコントラストは富山を代表する景観になっています。
また、総欅(けやき)造りの「千歳御門」は、嘉永2年(1849年)に御殿の正門として建てられた現存建築物で、市指定の文化財ともされています。石垣や水濠は当時の威容をよく残していて、ここは瀧廉太郎の「荒城の月」の題材にもなった場所とも言われ、城址には歌碑も建てられています。その他にも園内には東洋古美術を展示する「佐藤記念美術館」や美しい庭園なども広がっています。
※写真は富山城に残されている石垣の風景
今回ご紹介した富山県富山市の旅行スポット
名称:富山市郷土博物館(富山城)
住所:富山県富山市本丸1-62(富山城址公園内)
アクセス:JR北陸新幹線「富山駅」より市内軌道線(富山都心線)「国際会議場前」徒歩約2分
開館時間:9:00~16:30
入館料:一般210円、小中学生100円
駐車場:城址公園地下駐車場(有料)
参考リンク:富山市郷土博物館、佐藤記念美術館公式サイト
あらき 獏(ばく)
情報誌の編集者を経て、現在は文化、歴史系フリーライター。歴史を側面から探ることで、歴史の謎解きを楽しんでいます。
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