広島城は天下人の城に負けないほどだった!広島城の築城秘話と波乱の歴史に触れる旅
広島市、太田川河口のデルタ地帯に築かれた平城「広島城」。ここはかつて中国地方の太守、毛利氏が領国支配の象徴として築いた近世城郭です。この城は大坂城を参考にし、縄張りは聚楽第を手本にしたとも言われます。今回は築城の名人も起案に携わったという広島城の話と、波乱の歴史をご紹介していきます。
豊臣秀吉と築城の名人、黒田如水が関わった。広島城の築城秘話
天正16年(1588年)、中国9か国120万石の太守であった毛利輝元は、豊臣秀吉の招きに応じて一族の小早川隆景や吉川広家らとともに上洛し、大坂城や京都の聚楽第を訪れて近世城郭の重要性を痛感、そこから新たな城を造ることを決意したと言われます。
この時に毛利氏の居城であった吉田郡山城は、尼子氏の大軍を撃退した堅固な山城でしたが、毛利氏にとっては山間の吉田郡山城は政治、商業の中心地としては手狭でした。そこで、海上交易路である瀬戸内の水運が活かせ、大きな城下町を造れる海沿いの平野に拠点を移すことを考えます。
天正17年(1589年)、毛利輝元は太田川河口域を検地した後に築城を開始します。新たな城の構造は大坂城を参考にし、縄張は聚楽第を手本にしたと言われ、秀吉の側近で築城の名人とされた黒田如水が起案に参加しています。また、秀吉の朝鮮出兵に於ける前線基地、名護屋城と大阪城を海路で繋ぐ中継基地としても整備されたと言われます。
※写真は広島城の天守。江戸中期の記録によると広島城には5重と3重の大小天守群以下、88の櫓があったとされます
天正18年(1590年)には堀と城塁が竣工、その翌年には毛利輝元が入城します。また、文禄元年(1592年)には、文禄の役を指揮するために名護屋城へ向かう途中の秀吉がこの城に立ち寄っています。その後、慶長4年(1599年)に広島城は落成しましたが、完成当初は三重の堀が巡らされ、多くの馬出を備える実戦的な城構えで、当時の大坂城に匹敵するほどの規模であったとも言われます。
※写真は天守。毛利輝元によって創建された天守は、1945年の原爆投下によって倒壊するまで、古式を伝える城郭建築とされ、国宝にも指定されていました。その後、1957年に天守の外観が復元され、内部は城と城下町の歴史博物館になっています
毛利輝元から福島正則、そして浅野氏の居城へ。波乱の歴史を伝える広島城
しかしこの城を造った毛利氏は、関ヶ原の戦いにおいて西軍の総大将となったことで、その敗戦後は周防、長門2カ国に減封されてしまい、慶長5年(1600年)に広島を去りました。そして関ヶ原において、東軍として戦功を挙げた福島正則が49万8,000石を得て、新たに広島城へと入ります。
この城に入った福島正則は城下の整備を進め、外郭が造られ、城下町が拡大され、ここに至って広島城は壮大な城郭となります。しかしこの大規模な工事が徳川家康を怒らせてしまい、福島正則は謹慎を言い渡され、元和5年(1619年)には、洪水による被害の修復を無届けで改築したとして咎められ、ついには改易の憂き目となり、信濃、川中島へと転封されてしまいました。
その後、そんな福島正則に代わって広島城に入った人物は浅野長晟(ながあきら)でした。これ以降広島城は広島藩42万6000石の太守、浅野家12代の居城となり、明治維新を迎えていく事になりました。
※写真は縮景園の濯纓池と悠々亭
縮景園は、池を中心に橋、茶室、四阿を小道で繋いだ回遊式庭園
縮景園(しゅっけいえん)は、広島城の東域、京橋川沿いにある庭園です。この庭園は広島藩主、浅野長晟が元和6年(1620年)から別邸の庭園として築造したもので、その作庭は茶人としても知られる家老、上田宗箇。ここは幾多の景勝を縮めて表現したことから、縮景園と呼ばれました。
中央には濯纓池(たくえいち)を配して、大小10ほどの島を浮かべ、周囲には山を築き、渓谷、橋、茶室、四阿(あずまや)が配され、それを小道で繋いだ回遊式庭園とされています。ここは梅、桜、ツツジの名所としても有名で、国の名勝に指定されています。
※写真は濯纓池と跨虹橋(ここうきょう)
今回ご紹介した広島旅のスポット
名称:広島城
住所:広島県広島市中区基町21-1
アクセス:バス「合同庁舎前」徒歩約5分
駐車場:専用駐車場あり
入場料:一般370円 シニア、高校生180円
参考リンク:広島城公式サイト
名称:縮景園
住所:広島県広島市中区上幟町2-11
アクセス:広島電鉄「縮景園前」徒歩約2分
駐車場:周辺に一般駐車場あり
入園料:一般260円、高大生150円、小中生100円
参考リンク:縮景園公式サイト
あらき 獏(ばく)
情報誌の編集者を経て、現在は文化、歴史系フリーライター。歴史を側面から探ることで、歴史の謎解きを楽しんでいます。
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