沖縄のシンボル、首里城で琉球王国の建築と文化に触れ、王国時代の情緒を感じる旅
那覇の丘陵の上に建ち、鮮やかな朱色に彩られた王宮。この壮麗な建物こそ、琉球王国時代の王城であった「首里城」です。今回は琉球王国時代の建築、そして文化と歴史に触れ、王城の見所と情緒を感じる沖縄旅をご紹介していきます。
※写真はライトアップされた首里城の正殿
日本と中国の建築文化を融合した独特の建築様式。壮麗な朱塗りは王朝繁栄の象徴
沖縄県那覇市の「首里城」は、15世紀の尚巴志による琉球統一を経て琉球王国の王城とされた場所。那覇市街を見下ろす丘陵の上に建ち、外郭と内郭の二重の城壁に囲まれてその威容を誇っています。
外郭には歓会門、久慶門など4つのアーチ門があり、内郭には瑞泉門、漏刻門などの9つの門があります。内郭の中央にある広場は「御庭(うなー)」と呼ばれ、この広場を囲むように南殿、正殿、北殿などの建物群が並び、独特の優美な姿を私たちに見せてくれます。この日本と中国の文化を融合した首里城の建築様式や築城技術は、文化的な価値が非常に高いとされ、2000年には「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として世界遺産にも登録されました。
※写真は首里城の漏刻門
首里城に秘められた、琉球王国450年の興亡と波乱の歴史
14世紀までの沖縄には、北山、中山、南山の3つの国があり、互いに争い合っていました。そしてこれを統一して琉球王国をうち立てたのが「尚巴志(しょうはし)」という人物でした。1406年、南山佐敷の按司(あじ、地方領主)であった尚巴志は中山を攻め滅ぼし、首里城を居城として父の尚思紹を中山王とします。また、1416年には北山を、さらに1429年には南山を滅ぼした事で琉球の統一を果たします。そしてその後は日本や中国、朝鮮半島から東南アジアまで、交易を拡大して繁栄の時代を迎えていきます。
しかし1462年、7代の尚徳王の時代に、重臣の金丸(尚円王)が王位を継承し、尚巴志の王統は途絶えてしまいます。これはクーデターという説もありますが、以降400年、この王統は1879年(明治12年)に国王が首里城から退出し、沖縄県となるまで続く事になります。そして時代はさらに移っていき、1945年(昭和20年)の沖縄戦では首里城が全焼、そして現在目にする事ができる首里城の姿は1992年(平成4年)に復元されたものとなっています。
※写真は首里城の正殿と御庭
※写真は首里城の久慶門
琉球王国の歴史と文化に浸り、王朝の息吹を感じる首里城の歩き方
ゆいレール(沖縄都市モノレール)の首里駅から、首里城の入口である「守礼の門」までは15分ほど。そして守礼の門からは園比屋武御嶽(そのひゃんうたき)を経て、首里城の正門である「歓会門」へと入ります。瑞泉門、漏刻門、広福門とくぐった後は下之御庭へ。ここで入場料を払い、奉神門へと入っていきます。見学コースは南殿、書院、正殿、北殿と周り、御庭(うなー)へと出てきます。
国王が居住した正殿の1階と2階には、玉座である「御差床(うさすか)」があります。1階は「下庫理(しちゃぐい)」と呼ばれ、国王が政務を行う場所。そして正殿の前面となる「御庭(うなー)」は儀式を執り行なうための広場。国王はここで家臣と謁見したり、他国からの使者などを迎えました。この広場は整列しやいように地面が色分けされるという工夫もなされています。
また、首里城の下手にはレストハウス「首里杜館(すいむいかん)」というスポットも。ここでは模型やビデオで再現された首里城の歴史を知る事ができるようになっています。ちなみに下手には宮殿を模した石造りの王墓「玉綾(たまうどぅん)」もあり、南へ細い急坂を下ると「金武(きん)石畳道」へと至ります。200mほどの石畳道は「日本の道百選」にも選出され、赤瓦屋根の古い民家が建ち並んでいます。首里城の周辺には、いまだに琉球王国時代の情緒が色濃く残されています。
今回ご紹介した沖縄旅のスポット
名称:首里城公園
住所:沖縄県那覇市首里金城町1-2
入場料:大人820円/高校生620円/小・中学生310円(2016年1月現在)
アクセス:ゆいレール(沖縄都市モノレール)「首里駅」徒歩約15分。路線バスもあり
駐車場:専用駐車場あり(有料)
参考情報:首里城公園の公式サイト
あらき 獏(ばく)
情報誌の編集者を経て、現在は文化、歴史系フリーライター。歴史を側面から探ることで、歴史の謎解きを楽しんでいます。
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