織田と今川の運命の分かれ道!桶狭間の戦いで名高い桶狭間古戦場を巡る歴史旅
戦国時代の合戦の中でも特に名高い「桶狭間の戦い」。海道一の弓取りと言われた今川義元がまさかの敗戦を遂げ、織田信長が世に出るきっかけともなった一戦。今回は愛知県豊明市に今も残る、「桶狭間古戦場跡」を訪ねる歴史旅をご紹介していきます。
織田信長と今川義元の運命が分かれた場所「桶狭間」
時は1560年(永禄3年)の5月19日。強い雨が降った直後の14時頃、織田信長軍の奇襲により、両軍の運命を決する一戦が突如として幕をあける。約2万5,000とも言われる大軍を率いて尾張へと進軍した今川義元に対し、織田信長の手勢は約3,000。誰の目から見ても今川義元の勝利は堅いだろうと思われたこの両者の戦いは、ここ桶狭間において全てが覆ることになる。
織田信長の歴史を伝える信長公記によると、この周辺の山(おけはざま山)で休息を取っていた今川義元の本陣を織田信長が急襲、追い詰められた今川義元はこの桶狭間古戦場辺りの場所で、服部小平太と毛利新介の手によって討ち取られたとされている。
両者の運命が決した、桶狭間の今を訪ねてみる
国指定の史跡となっている桶狭間古戦場の現在の風景。名古屋駅から電車で30分ほど、名鉄名古屋本線「中京競馬場前」からも非常に近い場所で、古戦場跡の近隣は住宅地としての開発も進んでいる。普段は静かであろう住宅街の何気ない暮らしの中に、誰もが教科書で学んだ場所が今も大切に保存されている。
公園として整備されている桶狭間古戦場に入り、まず目に入ったのが「七石表(一号碑)」と呼ばれる石碑。桶狭間の戦いで今川義元が戦死した場所を示す、最も古いものだそうで、江戸時代の1771年に尾張藩士の手により石碑が建てられたそうです。
そしてこちらがかつて、駿河・遠江・三河の3ヶ国の国主であった今川義元公の墓。戦死したとされる石碑のすぐ隣の場所にこの墓があり、建てられたのは明治9年という旨が書いてありました。ちなみにこの場所の向かい側には高徳院というお寺があり、そちらのお寺の境内が当時、今川義元の本陣であったと伝えられているそうです。
折しも今回、私がこの今川義元公の墓を訪れた時、ちょうど同じタイミングで高徳院の御坊様もここにやってきました。そして線香をあげ、お経を読み、また寺の中へと去っていかれました。恐らく毎日のお勤めの1つになっているものと思いますが、何百年の時が流れても尚、今ここで弔い続けている人たちがいる事を知ると、少し胸が熱くなりました。
今川義元公の墓から道路を挟んで向かい側にも数多くの仏様が。こちらでは桶狭間の戦いで散っていった名もなき方々の菩提も弔っているようで、高徳院の御坊様はここでも線香をあげ、お経を読んでおられました。いわば歴史上の武勇伝のような形で語られる事が多い桶狭間の戦いですが、この地に来て、はじめてこういった方々の存在も知りました。
公園として整備されている桶狭間古戦場跡のすぐ隣には小高い竹林の丘が。この竹林の下、道路の向こうに今川義元公の墓があります。桶狭間の戦いは、こういった竹林が無数に広がる場所の中で、繰り広げられたのかもしれません。
その他にも桶狭間古戦場跡の敷地内には、当時の織田軍、今川軍の進軍ルートを示す案内板も置かれていました。この進軍ルートを見る限り、織田信長は今川軍の動きをかなり細かくキャッチしていたのかもしれません。
最後に整備されて公園になっている桶狭間古戦場跡の全体図をご紹介。今川義元公の墓以外にも、多くの石碑が建てられていて、知らなかった事が多く示されている場所でもありました。戦国時代の勢力図を一気に塗り替え、後の日本の歴史に大きな影響を与える人物たちが、世に出ていくきっかけにもなった一戦。今もその場所は人の手で大切に守られ、後世を生きる私たちに当時の歴史の一端を伝えてくれていました。
レキタビ編集部
歴史スポット巡りや観光、老舗の歴史飯を味わう旅って案外楽しい!と言って頂けるような情報を発信したいと思います。
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