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世界遺産の平泉、中尊寺・金色堂を歩き、奥州藤原氏が目指した極楽浄土の世界を知る旅へ

記事公開日:2017/02/07

平安時代、奥州藤原氏が極楽浄土を願って岩手県平泉町に建立した中尊寺。藤原氏は金を産出するこの地で栄華を極め、その評判は日本が黄金の国ジパングとして世界に知られるきっかけになったとも言います。しかし鎌倉時代に入り、源頼朝との奥州合戦に敗れた藤原氏は100年間の繁栄に幕を下ろす事となりました。今回は岩手県西磐井郡平泉町を訪ね、「兵どもが夢の跡」と詠まれた中尊寺の歴史を紐解いていきます。

平泉の中尊寺


みちのく平泉はかつての国境の地

 

岩手県を南北に流れる北上川。そしてその支流である衣川付近は、かつて朝廷勢力と古代東北のエミシ(蝦夷)勢力との境界だった場所。胆沢平野の扇状地では坂上田村麻呂とアテルイの衝突が繰り返され、最終的に勝利した朝廷勢力がこの平泉一帯を支配しました。そして8世紀末には金の産出と北上川の水運の発達により、平泉という地域の重要性は一層高まりました。

 

そしてその後、この地域は豪族安倍氏が郡司として支配を行いましたが、前九年の役によって源氏の源頼義に滅ぼされてしまい、以後この地域を支配した清原氏には内紛(後三年の役)が発生、その内紛を勝ち残った清衡が、藤原氏を名乗って平泉に本拠を構えました。

 

中尊寺を建立し、奥州藤原氏はその栄華を極める

 

平安時代後期、争いのない世を願い、仏教思想を元に極楽浄土を実現させようと奥州藤原氏の初代、藤原清衡が1105年に中尊寺を建立。豊富な金の産出と良馬の産地でもあったこの地域で藤原氏は隆盛を誇り、黄金文化の象徴・金色堂を完成させました。継いだ二代の基衡、そして三代の秀衡は浄土思想を一層普及させ、毛越寺(もうつうじ)や、無量光院を建立し、藤原三代はここに栄華を極めました。

 

中尊寺の本堂

※写真は中尊寺の本堂

 

源義経を擁護した藤原氏は、奥州合戦を経て滅亡へ至る

 

当時、藤原氏が造り上げた平泉は京をも凌ぐ繁栄を遂げ、仏教文化の理想の都と言われました。その一方で平氏を討伐した源頼朝は、栄華を極める藤原氏の台頭に危機感を覚えていきます。頼朝は義経を擁護した藤原秀衡に対し、義経追討の朝命で圧力をかけ、秀衡の子である藤原泰衡が義経を襲撃、自害へと追い込みました。さらに源頼朝は義経を匿った藤原氏に攻め込み(奥州合戦)、最終的に平泉は陥落。これによって奥州藤原氏は滅亡する結果となりました。

 

金色堂の外観(新覆堂)

※写真は金色堂の外観(新覆堂)。金色堂を保護するため新覆堂の中に置かれている(内部は撮影禁止)

 

そして21世紀の今、奥州藤原氏が残した黄金の金色堂へ

 

国宝としても知られる中尊寺の「金色堂」は、天治元年(1124年)、藤原清衡が69歳の時に建立されたもの。これは幅が5.5m四方、高さ8mほどの瀟洒な皆金色の阿弥陀堂ですが、その中には奥州藤原氏四代の遺体も収められ、葬廟(霊屋)とも言われています。内部には金箔に輝く仏像11体とともに、亜熱帯産の夜光貝を使った螺鈿細工、インド産の紫檀、紫檀淵にはアフリカゾウの象牙など、当時の海外交易で得られた富と材料がふんだんに使われています。

 

金色堂では中央の須弥檀内には清衡が、そして左右檀には基衡、秀衡の遺骸、さらに秀衡の横には息子の泰衡の首桶が安置されています。遺骸はもちろんミイラ化しているものの、骨格などの人類学的調査によって、血液型などは判明しています。しかし、ミイラ化に対する人工的処置の有無や遺体保存の思想的根拠、奥州藤原氏の出自など、依然として多くの謎に包まれています。

 

旧覆堂(重要文化財)

※写真は旧覆堂(重要文化財)。室町時代中期(1393年~1466年頃)の建立で、約500年間金色堂を守ってきました。

 

衰退する平泉の中に残された金色堂

 

文治5年(1189年)、奥州藤原氏が滅亡した後の中尊寺は鎌倉幕府によって保護され、正応元年(1288年)には金色堂全体を覆う初期の鞘堂(覆堂)が建立されました。しかし、藤原氏を失った平泉はどんどんと求心力を失っていき、次第に荒廃していきました。そして建武4年(1337年)には大火で多くの建物を焼失。戦国時代には豊臣秀吉によって、秘宝と云われる「紺紙金銀字交書一切経」(通称中尊寺経・国宝)など、4,000巻もの経典が持ち出されてしまいました。

 

経蔵(重要文化財)

※写真は経蔵(重要文化財)。平安時代後期(1086年~1184年頃)の建立で、「中尊寺経」が収納されていたというお堂

 

そんな逆境の歴史の中でも金色堂は奇跡的に残り、その輝きを後世へと伝え続けました。江戸時代には藩主であった伊達氏が所有領の整備や旧跡の修理などを進め、参道の杉並木も植樹され、中尊寺の境内全体を復興させています。

 

中尊寺の参道

※写真は中尊寺の参道。江戸時代の伊達藩によって植樹された杉が並ぶ

 

松尾芭蕉の紀行「おくのほそ道」

 

江戸時代の元禄2年(1689年)、俳人松尾芭蕉は弟子の曾良と共に奥州・北陸の各地を巡り、その際に平泉にも訪れています。そして高舘(たかだち)の丘からかつての古戦場を見下ろし、杜甫の「国破れて山河あり」の詩を想い浮かべ、栄枯盛衰の移ろいに涙します。

 

「夏草や 兵どもが 夢の跡」

 

また、退廃しつつあった中尊寺では、覆堂に囲われた金色堂だけが雨風を凌ぎ、千年の時を偲ばせていると感じ入ります。

 

「五月雨の 降残してや 光堂」

 

芭蕉が訪れた元禄2年は、奥州藤原氏が滅亡して丁度500年目の年でもありました。

 

金色堂の傍に立つ芭蕉句碑

※写真は金色堂の傍に立つ芭蕉句碑。延享3年(1746年)の建立と伝えられる

 

奥州藤原氏が繁栄したのは僅か100年余りの期間ではあったものの、当時の平泉、そして金色堂の輝かしい歴史はマルコポーロへと伝わり、東方見聞録の中で「黄金の国ジパング」として諸外国に知られていく出来事になりました。

 

中尊寺本堂の大仏

 

そして21世紀の今、平泉は世界遺産に登録されています。その評価基準書の中には、「浄土思想に基づき、現世に仏国土(浄土)が実現できると考えられた」時代の建築・庭園群であると記されています。平安時代、藤原氏が争いのない極楽浄土を願ってこの地に築いた建築、庭園の数々。その精神は現代社会においても引き継がれています。

 

今回ご紹介した岩手県西磐井郡平泉町の旅行スポット

 

名称:関山 中尊寺
住所:〒029-4102 岩手県西磐井郡平泉町平泉衣関202
アクセス:JR東北本線「平泉駅」から徒歩の場合は約25分(約1.6km)
参考サイト:関山 中尊寺公式サイト

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