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筑豊の炭鉱王・伊藤伝右衛門と白蓮の愛憎物語、その舞台となった旧伊藤伝右衛門邸を巡る旅

記事公開日:2016/11/10

福岡県飯塚市の旧伊藤伝右衛門邸は、「筑豊の炭鉱王」と呼ばれた伊藤伝右衛門が大正から昭和初期にかけて造った邸宅。日本庭園に面しての御殿は独特の風情を見せ、邸内は贅を尽くした仕上げとなっています。また、この邸宅は伝右衛門と歌人・柳原白蓮(びゃくれん)の愛憎の物語が秘められている場所でもありました。

旧伊藤伝右衛門邸


筑豊の炭鉱王・伊藤伝右衛門が、妻である白蓮のために造った華麗なる邸宅

 

伊藤伝右衛門は明治、大正、昭和時代を生き抜いた筑豊の炭鉱主。この伝右衛門は若い頃、父の小さな炭坑で採炭夫をしていました。しかしやがて、明治34年(1901年)に九州で八幡製鉄所が操業を始め、製鉄に必要な石炭の需要が急激に増えていきます。そんな状況下で父の病死によって独り立ちした伝右衛門は自らの事業を拡大、伝右衛門の炭鉱は良質の石炭に恵まれました。そして明治37年(1904年)に日露戦争が勃発すると、この良質の石炭が巨万の富を生み出しました。これによって伝右衛門の炭鉱事業は大きく飛躍し、やがて伝右衛門は「筑豊の炭鉱王」と呼ばれるようになりました。

 

また、別の側面では明治43年(1910年)に伝右衛門は20余年連れ添った妻を病気で亡くし、翌年には伯爵・柳原前光の娘、燁子(あきこ)と再婚しています。これが運命の女性、白蓮との愛憎の物語の始まりでした。

 

伝右衛門は白蓮を迎え入れるために、約2,300坪の敷地に25の部屋数を持つ大邸宅を造ります。広大な日本庭園に面して4つの棟と3つの土蔵が御殿の風情を見せ、邸内は京都から宮大工を呼び寄せ、贅を尽くして仕上げられました。特に白蓮の部屋に関しては襖(ふすま)に銀箔を張るなど、白蓮好みの内装に仕上げられています。

 

マントルピースのある応接間

※写真はマントルピースのある応接間。和洋折衷の邸内には繊細で優美な装飾がいたるところに配されています

 

応接間のイギリス製ステンドグラス

※写真は応接間のイギリス製ステンドグラス

 

旧伊藤伝右衛門邸の座敷

※写真は座敷。欄間など細部にまでこだわり、贅を尽くして仕上げられています

 

本座敷からのぞむ庭園

※写真は本座敷からのぞむ庭園

 

東の間

※写真は東の間。伊藤邸は市有形文化財に指定されています

 

伝右衛門と白蓮の愛憎物語。すれ違い続けた二人の心

 

歌人・白蓮こと柳原燁子は大正天皇の従妹(いとこ)にあたります。伝右衛門は50歳、そして白蓮は25歳と親子ほどの年齢差があり、大富豪とは言え労働者あがりの伝右衛門と伯爵令嬢との結婚は、成金が華族の姫を金で買ったと言われ話題になります。この結婚の背景には、貴族院議員である白蓮の兄の選挙資金を目あてにするという政略的なものがあったとも言います。

 

その一方で伝右衛門は昔からの女遊びが収まらず、さらに25歳という年齢差も加わったのか、二人の間には溝が生まれていきます。加えて先妻や妾、養子などの問題も白蓮を苦しめました。それでも伝右衛門は愛する白蓮のために何冊もの歌集を出版し、白蓮の方は病に倒れた伝右衛門をかいがいしく看病しています。

 

しかし、その後白蓮は雑誌「解放」の主筆で、7歳年下であった宮崎龍介と恋に落ち出奔してしまいます。白蓮は東大出であったインテリの龍介に心惹かれ、道ならぬ恋はさらに二人を燃え上がらせました。そして白蓮は伝右衛門への絶縁状を新聞で公開、炭鉱王の伝右衛門を捨て、年下の愛人と駆け落ちするというスキャンダルに世間は騒然となります。

 

その後の白蓮は伊藤邸に戻ることなく、すれ違い続けた二人の関係も終わります。伝右衛門の側は一度惚れた女だからとの一言で弁明もせず口を閉ざし、その後は財界人として精力的に働き、奨学金制度を設けるなどの社会的活動も行って人生に幕を下ろします。

 

2階の白蓮の居室

※写真は2階の白蓮の居室

 

白蓮の居室には銀箔が張られた襖や蝶をあしらった天袋など、様々な意匠が凝らされていて、伝右衛門の白蓮に対する想いが伝わります。伝右衛門と白蓮は10年間をこの邸宅で過ごし、白蓮の出奔以降、白蓮の居室はそのまま残されました。

 

2階の白蓮の居室から望む庭園の景色

※写真は2階の白蓮の居室から望む庭園の景色。この庭園は国の名勝に指定されています

 

当時の白蓮の姿

※写真は当時の白蓮の姿

 

この騒動には社会運動家で法学家でもある宮崎龍介の思想的背景があり、自由と人権を訴える大正デモクラシーの社会風潮が反映されていました。まだ姦通罪が残るこの時代、龍介は学生運動の仲間であった新聞記者らと、新聞を使って白蓮の境遇を世論に訴え、二人の駆け落ちを人権問題として正当化したという側面があるとも言われます。

 

その後の龍介は弁護士になり、白蓮は歌集や小説を出版して講演なども行います。また、吉原遊郭の花魁の自由廃業を助けるなどの活動も行い、白蓮は境遇に苦しむ女性たちの憧れの存在となります。その後は学徒として出陣した長男の戦死をきっかけに、戦後になって悲母の会を結成。平和運動家として全国を行脚し、のちに世界連邦運動婦人部へと発展しています。

 

伊藤邸の長屋門

※写真は伊藤邸の長屋門。伊藤邸は毎年の「いいづか雛のまつり」会場や将棋の「女流王位戦」の対局会場としても知られます

 

今回ご紹介した福岡県飯塚市の旅行スポット

 

名称:旧伊藤伝右衛門邸
住所:福岡県飯塚市幸袋300
アクセス:西鉄バス「幸袋・旧伊藤伝右衛門邸前」徒歩すぐ
駐車場:専用駐車場あり(無料)
開門時間:9:30~16:30(閉門17:00/水曜休館)
入場料:大人300円、中学生・小学生 100円
参考リンク:旧伊藤伝右衛門邸公式サイト

 

あらき 獏(ばく)あらき 獏(ばく)

情報誌の編集者を経て、現在は文化、歴史系フリーライター。歴史を側面から探ることで、歴史の謎解きを楽しんでいます。

 

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