安倍晴明と芦屋道満の最終決戦地!陰陽師のディープスポット、佐用町を訪ねる歴史旅
陰陽師の双璧、安倍晴明と芦屋道満は兵庫県佐用町で最後の死闘を繰り広げたと伝わります。ここには谷を挟んで二人の碑が対峙して祭られ、全国的にも極めて珍しい場所と言われています。そもそも二人はなぜこの地で戦う事になったのでしょうか?今回その謎を確かめる歴史旅をご紹介していきます。
平安京で時代の寵児となった「安倍晴明」
ここは京都から遠く離れた兵庫県の西の端、佐用町大木谷地区。高台の木立に囲まれた場所に安倍晴明の塚があります。「いぶし晴明塚宝篋印塔(ほうきょういんとう)」とあり、基礎四面に格狭間(こうはざま)、下に反花座(かえりばなざ)を配し、南面には「イブし」の刻印が見え、古地名「猪伏」を現していて、これは室町時代前期の造立と言われています。この晴明塚は京都の晴明神社と緯度が全く同じで、真西に位置します。これもこの塚の謎の1つになっています。
宝篋印塔の前には「晴明堂」というお堂があり、中の厨子には仏像や、訪問者用の記帳ノートがあります。記帳ノートには各地から訪れた人が、その想いを綴っている様子が読み取れて、晴明塚の人気も窺えます。
平安時代中期に生まれた晴明は、その才能を見出され、天文道を中心とした陰陽道に卓越した能力を開花しました。聖徳太子が陰陽五行説を導入し、さらに律令制度に陰陽道が取り入れられ、国家機能の中核として政治経済にも深く関わっていきます。
晴明は、花山天皇の譲位を予知し、呪術で魔物を調伏させ、瓜の中の毒蛇を見抜くなどの異才を発揮、まさに時代のスーパースターとして名声を得ていきます。
対する播磨国の陰陽師が「芦屋道満」
晴明塚から一度谷側に下り、迂回しながら反対側の小山を登ったところに「道満塚」があります。塚に至る道は急峻な坂道で、道幅も狭くなっています(基本的には歩いて登るのが良いようです)。
この「道満塚」は何度も建て替えられ、現在の石塔は寛政9年(1797年)に再建されたものだそうです。晴明塚と比較しても遜色のない立派な石塔です。周りにはお堂などが無く、少し寂しい感じもしますが、綺麗に整備はなされています。恐らく地元の皆さんの気遣いなのでしょう。ただ、道満塚の方を訪れる人はあまり多くないようで、やはり人気の差があるのかもしれません。
道満塚は、晴明塚から見ると南西の方向にあたり、直線距離で約600mの位置にあります。距離は近いのですが、間に木々も多く茂っており、お互いには見通せない場所になっていました。
上記写真の右端の奥が晴明塚の方向です。ちなみに2つの塚は互いに違う方向を向いています。晴明塚は「君子南面す」と上位者視点で南を向いており、一方、道満塚は「西方浄土」の西を向いているとも言われますが、見方を変えれば京都に背を向けているのかもしれません。方位というのは古来から重要な意味を持っていると言われますが、どういう意味や意図があるのか?はたまた無いのか?これも謎の1つです。
安倍晴明と芦屋道満の戦い
芦屋道満は、京の都で時の権力者であった藤原道長に対しての呪詛を安倍晴明に見破られ、この佐用の地に流されました。しかし道満はこの地からも呪いを放ち、呪術攻撃を仕掛けます。それを察知した晴明は、京の都からこの地に乗り込んで壮絶な戦いが始まります。
晴明は大猪伏(いぶし)の丘、道満は向かいの植木谷の下村に陣取ります。晴明は式神を飛ばして攻撃、道満は孔雀明王を祭り、悪木でもって護摩を焚き、千年の古蟇を使って呪術で対抗します。そして戦いの果てにとうとう道満は力尽き、ここで倒れたと伝わっています。
2人の戦いで飛び交った槍が谷に落ち、現在そこには「鑓飛橋(やりとびばし)」という小さな橋が残されています。また、戦いの後に、谷の下の小さな川で道満の首を洗ったと伝えられる場所があり、「おつけ場」と呼ばれています。尚、鑓飛橋(やりとびばし)は、お互いの距離の中ほどに位置し、その先に晴明塚と道満塚への分かれ道があります。
道満塚の先には日本の棚田100選「乙大木谷」も
道満塚を過ぎて行くと、「日本の棚田100選」にも認定された「乙大木谷」の美しい棚田が広がっています。
ここを初めて訪れた時は、地元の方に晴明塚の場所をお尋ねしました。その時「晴明塚はそのすぐ上だよ。でも本当は道満塚が本命だから、そこを訪ねた方がいいよ」と言われました。この地区ではやはり、地元播磨の「どうまんさん」への想いの方が強いようですね。
芦屋道満という人物の実像に迫る
邪悪の代表と言われる芦屋道満ですが、実際はどういう人物だったのでしょうか。平安時代、当時の権力者は自分の地位を堅固にするために、陰陽師のカリスマ性を利用して多くの逸話を作り出していきます。そこには正義と邪悪を正対させることで、庶民に分かりやすく浸透させるといった思惑もありました。そこで生まれたのが、中央権力者側のヒーロー安倍晴明に対して、草莽の陰陽師、悪の権化「道摩」という構図でした。
播磨も民間の陰陽師が多かった地域です。智徳法師、弓削是雄、滋岳川人などの名前が史料に見えます。京の都の中央から見れば、活躍されては困る、煙たい存在だったのかもしれません。播磨の陰陽師である道満はその象徴のような存在で、模されて宇治拾遺物語の「道摩法師」になったとも見られています。
芦屋道満の生まれ育った地を訪ねてみる
兵庫県加古川市、西神吉町岸の「正岸寺(しょうがんじ)」には小さな祠があります。そしてそこに道満法師の像が祀られていました。
お寺の由緒にはこのように伝えられていました。ここに住んで修行を重ねた道満は、さらに深く学ぶために京都に出た。井戸に残された式神は、夜の12時にいつも修行をしていたことを思い出し、主人を探して赤い火の玉となって東の空に飛び、これを「道満の一つ火(ひとつび)」と言われる。
碑文には「平安天徳二年に当地に生誕し、天文、歴数、方位、卜筮(ぼくぜい)、呪術、干支、五行、遁甲、方術、兵法を究め 庶民のために尽せし功績は大なり。この碑は遺徳を偲び、地域の発展と有縁の人々の幸いを願って建立する」とあり、地域の人々に寄り添い、尽くしていたことが記されています。
京都の藤原道長は、後継争いで正統の兼道の息子・顕光を蔑み、その娘を病死させます。悲嘆にくれた顕光は、恨みを晴らさんと道摩法師に呪詛を依頼します。これによって道満は権力争いに巻き込まれます。道長の悪政の被害者でもあったのでしょう。
佐用の戦いでは、式神を道満の家の井戸に残したままであったので、晴明の式神攻勢に、通常の呪術のみで対抗し、敗れてしまったとも言われています。
「峯相記」では、道満は佐用の奥に住んだとあり、またその近くの民家には道満来歴の古文書が残されていると伝わっています。さらに佐用町史では、道満亡き後、子孫は近くの仁方に住み、後年飾磨郡(現姫路市)英賀、三宅に移り住んだと言われています。
その末裔は岡山付近で「道満」姓として継承され、現代につながっています。実際に苗字として引き継がれているということは、芦屋道満が本来尊崇されるべき法師であったことが窺えます。
そもそも、道満法師が実在したのかについても諸説ありますが、この播磨地方の種々の伝承を紡ぎ、想像を膨らませていくと、その存在を感じられるような気がしてきます。
全国各地に陰陽師の塚は点在していますが、この佐用の地の陰陽師は晴明だけでなく、播磨の道満の存在感も確かにあります。とてもディープなスポットですが、陰陽師に関心ある方々は、ぜひ一度は訪れてみてはいかがでしょうか?
※最近は佐用町の方々の努力で案内板も充実し、訪問しやすくなっていました。
名称:晴明塚、道満塚
住所:佐用郡佐用町大木谷地内
アクセス:中国自動車道「佐用IC」から240号線を北上、福澤交叉点を左折して約15分
名称:正岸寺
所在地:加古川市西神吉町(にしかんきちょう)岸(きし)
アクセス:JR宝殿(ほうでん)駅から徒歩約9分
播磨翁
兵庫県の播磨国に在住。ワクワク出来る歴史旅をご紹介できれば幸いです。個人的には謎がありそうなディープな歴史が好きです。
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